『 光に従う歩み 』

2016年8月21日(日)
出エジプト13:17-22、ヨハネ8:12

今年は前橋花火では、後半花火が中断するハプニングがあった。主会場近くにいた人には「現在火災の消火をしています。沈火次第、花火を再開します」とのアナウンスがあったが、遠くで見ていた人は「もう終わりか」と思って帰った人もいたようだ。「花火は遠くで見るより、なるべく近くで見るものだ」ということを学んだ。

イエスは「私は世の光、私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われた。イエスという光に従う歩み、それがクリスチャンの生き方だと言えるだろう。「花火は近くでみるものだ」ということを思いながら、イエスの光への従い方を考えた。イエスの光に従う時も同じことが言えるのではないか。

イエスの光への従い方、それは人それぞれであろう。それぞれの置かれた状況、家庭環境、ライフスタイルの中で、従い方は違いがある。ひとつの「正しい従い方」があるわけではない。従い方はいろいろあっていい… そう思う。

しかしそのことを前提とした上で言うことだが、もしあなたがイエス・キリストの導きによって恵みを受けたいと願っているならば、できるだけ近くで従った方がいい、遠く離れてしまわない方がいい… そう思う。

「できるだけ近くに従う」とは、教会やキリスト教の事柄に関わる頻度や時間の多さ、理解度の深さで決まるのではない。「イエス・キリストに従おう」と願う、その人の心の中の距離感のことである。たとえ頻度や時間が少なくても、理解度が深くなくても、それでもイエスのなるべくそばを歩みたいと切に願うならば、それは幸いなことだ。

「遠く離れてイエスに従う」という道もあろう。しかしそこで、「遠く離れてしまって、それでいいんだ」と自分の位置を定めてしまうことは残念に思う。なぜなら、そのような「遠く離れたところで花火を見る」ような立ち位置にいたのでは、見えないこと、気付けないことがあるからだ。そこでは自分の心を激しく揺さぶる体験よりも、どうしても自分の都合を優先するマインドが育ってしまうと思うのだ。

闇の中を、たいまつを掲げて進むイエスの姿を想像する。私たちはひとりでは闇の中を歩けない。しかしイエスのたいまつに従うことで救いを得る、そう信じて歩むのがクリスチャンの生き方だ。

私たちはイエスのたいまつの、どの辺の位置を従えばいいのだろう?「なるべく近く」と言いながら矛盾するようだが、少し離れたくらいがいいと思う。たいまつの真後ろだと、確かに明るいが逆に足元以外は見えない。しかしあまり離れ過ぎると方向は分かるが途中の道が見えない。イエスの光と自分との間にほんのりと道が見えるくらいの距離、それが私たちにとってふさわしい距離感なのではないだろうか。