『 最後に笑えれば 』

ローマの信徒への手紙5:1~5(4月6日)

「いま泣いている人たちは幸いである。あなたがたは笑えるようになる」。ルカによる福音書に記されたイエス・キリストの言葉である。「最後には笑えるようになる」とイエスは言われる。しかし私たちの人生には、突然のアクシデントや病気、自分の願いがうまくいかないことなど、悩み悲しみの種があふれかえっている。そんな出来事に遭遇するとき、私たちは涙に暮れ、笑うことを忘れる。

でもイエスは言われる。「最後に笑えればいいんだよ」「最後に笑えるようになるんだよ」。イエスは決して人生を軽く見ておられたのではない。甘く考えていたのでもない。しかし一方で、どんな絶望的な状況の中でも、人を笑えるように導いて下さる神さまの導きを信じておられたのだと思う。そしてその神の導きのうちに、行き詰まってもそれでも笑うことのできる人間の力を信じておられたのだと思う。

「苦渋と欠乏の中でさすらったときのことを、決して忘れず覚えているからこそ、私の魂はなお待ち望む。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」(哀歌3:19-22)  バビロン捕囚の絶望の中で、主の希望を預言したエレミヤの言葉である。神戸では毎年、阪神大震災を覚える礼拝でこの言葉を読み続けてきた。大震災の、苦渋と欠乏を体験した人にとって、この言葉は大変心に沁みるものであった。

人は自分の生活が安定しているときは、案外「いのちの大切さ」にも気付かないものだ。しかし一旦大きな危機を体験すると、いま生きていること、生かされていることの尊さに気づけるようになる。パウロは「私は苦難をも誇りとする。苦難、忍耐、練達、そして希望に至る道を。」と語った。これは苦難をはねのけて雄々しく歩む勇気を得るということだろうか?むしろ「苦難を通して、小さな幸せに気づく心が与えられる」…そんな風に受けとめたい。

ターミナルケア(末期医療)の課題に取り組むアルフォンソ・デーケン教授(上智大)は、「末期ケアの現場で最後にその人を救うのはユーモアである。」と言われた。「ユーモアとは悪ふざけのことではありません。真のユーモアとは『 ~にも関わらず笑える心』のことなのです。」とも。人が、ちっぽけな自分を神さまに委ねるとき、そんな心が与えられるのだろう。イエスが示された「最後に笑える心」、それはまさにこのユーモアのようなものだと思う。

♪ 誰もがみないつも 満たされない思いを/胸の奥に抱いたまま 歩き続けてゆく/とにかく笑えれば 最後に笑えれば/答えのない毎日に ハハハと笑えれば ♪  (ウルフルズ『笑えれば』)

最後の笑える日が来る。そのことを信じて生きてゆこう。