『 羊と羊飼いの関係 』

2016年9月4日(日)
エレミヤ50:4-7、ヨハネ10:1-6

マザーグースにも収録された「メリーさんの羊」という童謡がある。まっ白な羊がメリーさんを追っかけて学校までついてきた、という実話に基づいて作られた歌だそうだ。歌の最後に「羊はどうしてメリーについてきたの?」「それはメリーさんが羊を好きだから」と歌われる。羊と少女との絆・信頼関係が表される。

羊は警戒心が強く群れを作り、危機を察知した一匹が動くとみんなそれに従う。一匹だけ群れから引き離そうとすると大変なストレスを感じるという。「百匹捕まえるより、一匹捕まえる方が難しい」と言われる所以である。

聖書の民・イスラエルのルーツは、遊牧民族であったと言われる。それ故に、神とイスラエルの民との関係が、しばしば羊飼いと羊の関係に譬えられる。「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」と始まる詩編23編などはその典型だ。先導者である羊飼い(神)に導かれて安らかに生きる羊の群れ(イスラエル)。それは人々の生活の中に日常的にあった風景だ。

しかし、そのような羊の特性は、導く方向を間違うと、群れ全体を破滅に向かわせかねない危うさを持ち合わせている。エレミヤ書ではイスラエルの指導者たちが進む方向を間違ったが故に、民をバビロン捕囚の憂き目にさらしてしまった失態が指摘される(50:6)。それに続けてエレミヤは言う。「逃れよ、バビロンの中から。群れの先頭を行く雄羊のように」(50:8)。

この「先頭の雄羊」とは誰か?必ずしも羊飼いに頼り切るのでなく、自分の判断で危機を察知し踵を返す、群れの中の最初の一匹ではないか。この「先導役」は、ボスである必要はない。能力や勇敢さが求められるのでもない。「こっちは危ない!」と察知するおのれの直感を信じる個体である。そのような存在が群れ全体を救うこともある。

ところで、プロテスタント教会では教職者のことを「牧師」と呼ぶ。言うまでもないがそれは「羊飼い」という意味だ。それに対する「羊」とは教会員のことであり、礼拝に集う人々のことである、と説明される。この「羊と羊飼いとの関係」とはどのようなものだろうか?

牧師の就任式でよく読まれるイエスの言葉がある。「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ福音書10:11)この言葉はまさにイエスの生涯を表していると言えるが、同時に牧師に就任しようとしている人間には大きなプレッシャーともなる言葉だ。ひとりの人間に過ぎない「牧師」(私のようなもの)が、イエスのような「よい羊飼い」になり得るのか?と自問自答する。それは大変難しいこと、いや所詮ムリなことだ、と言わざるを得ない。しかし、そのような羊飼いにはなれなくても、「よい羊飼いであるイエス」に従う、群れの中の先頭の雄羊にはなれるのかも知れない… そう思う。

今日の箇所でイエスは言われた。「羊は羊飼いの声を知っているのでついて行く。他の者にはついて行かない。その声を知らないからである。」(ヨハネ10:4-5) 羊飼いと羊との信頼関係を示す言葉である。その信頼こそ、教会にとって最も大切な絆であり、生命線である。この信頼はあたりまえのように存在するものではない。築き上げるものだ。互いに土俵を割らず、対話をし、向き合う中でこそ、それは育つ。