『 ピースサイン 』

マルコによる福音書11:1~11(4月13日)

写真を撮るのも、撮られるのも、ニガ手である。ポーズを求められシャッターが降りるまでの時間、間が持たない。多くの人は照れかくしに指を二本立てる。「ピース?」。あれもニガ手である。

ところで、人差し指と中指を立てることで、なぜ「ピース(平和)」になるのだろう?有名な仮説がある。第2次世界大戦のヨーロッパの終戦時に、イギリスのチャーチル首相がロンドン市民に向かってVサインを掲げた。勝利(Victory)を表すVサインである。「この勝利によって、英国に平和が戻った。」それでVサインがピースマークになったという説である。この仮説に基づくならば、「V」が「ピース」になるのは、「力で勝利した、相手を打ち倒して平和をもたらした。」という意味になる。何気ないピースサインにも、それなりの歴史と物語がある。

今日は棕櫚の主日。エルサレムに向かうイエス・キリストを、人々が棕櫚の葉を振り「ホサナ(救いたまえ)!」と叫んで迎えた日である。棕櫚の葉は勝利のしるしであり、王の象徴でもあった。「この方こそ、長い間待ち望んでいたメシヤ=救い主=キリストに違いない!」人々の熱狂がイエスの一行を包んだ。

そんな風にイエスを歓待した人々が、5日後の金曜日には「十字架につけよ!」と叫ぶのである。何があったのか?それは人々がイエスに期待した「救い」と、イエスが人々に与えようとした「救い」にズレにあったからではないか。つまりイエスは「期待外れ」だったため、「可愛さ余って憎さ百倍」。そんな風に群集の様変わりを想像する。

何が期待外れだったのか?人々が求めていたのは、ローマの圧政から民を救う力強い救世主、スーパーヒーローとしてのメシヤであった。しかしイエスはその人々の期待に応えようとせず、むしろそれに逆らうような姿でエルサレムに向かうのである。

イエスは力強い軍馬ではなく、力の弱い子どものロバに乗って、よろよろと入城された。「力に対して力で戦って、相手を打倒して勝ち取るものは本当の平和ではない。本当の平和とは、強い者が栄える世界ではなく、弱い者が貴ばれる世界のことである。」そんなことを示すために、イエスは子ロバに乗って進まれた。それはイエスの「ピースサイン」だったのだ。

残念ながら人々はその真意を受けとめきれず、イエスを十字架に追いやっってしまった。しかしその弱さの極みの中から、神の新しい物語が始まるのである。

ピース。?