『 内なる人を強める祈り 』

2016年9月11日(日) 恵老祝福礼拝
歴代誌下7:11-16、エフェソ3:14-21

夏の終わりは体調を崩す方が多い。夏の暑さに耐えてきた心身にダメージが刻まれる故か。そういった方々のところにお見舞いに行くとき、お話をしたり、可能ならば賛美歌を歌ったりして、最後に必ず回復を願う祈りをささげる。

誰でも病気や体調の不良を覚えれば、回復・癒しを願う。それはあたり前のことであるが、もしそのことによって「健康=善・幸せ、病気や不具合=悪・不幸」という決めつけが起こるならば、そこにはひとつの問題が潜んでいる。

相模原市で障がい者19名を刺殺した犯人は「重度の障がい者はいなくなった方が世の中のためになる」とくりかえしていたという。とんでもない考え方だと思うが、かつてナチスは「優性思考」の下で障がい者を安楽死させるという政策を取った。病気や障害を「マイナス」としてだけ評価する考えは、気を付けないとこの優性思考に行き着いてしまう。そうならないためには、まず私たちの意識の中から、病気、障がい、老いといったことに伴う機能の低下を、否定し切ってしまわずに柔らかに受けとめる感性を立ち上げたいと思うのだ。

「人生において病気になったという“事実”を変えることはできません。しかし病気になった“意味”は変えることができると信じています。」(宮本直治さん<薬剤師、僧侶>のことば)

エフェソの教会に向けて書かれた手紙の中で、パウロは「内なる人を強める」こと、「心のうちにキリストを住まわせる」ことの大切さを説いている。「内なる人」という言葉は、コリントの教会に宛てて書かれたパウロの手紙の中の、あの有名な言葉を思い起こさせる。「私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、『内なる人』は日々新たにされていきます。」

加齢によって確かに「外なる人」は衰えてゆく。目はかすみ、足腰は弱り、記憶はおぼろげになり、身体の動きが鈍くなる。それは人間の肉体の避けることのできない定めである。しかし「内なる人」は衰えない、日々新たにされる!とパウロは語る。ただしそれは、何もせず自然にそうなるというのではない。「信仰によって心のうちにキリストを住まわせ…」とあるように、それはすぐれて信仰による経験なのである。

「内なる人を強める祈りがある」。そう信じることができるならば、私たちは病気や老いに伴う肉体の弱りを、ただ煩わしく思い拒絶しようとするのでなく、その弱さをすずやかに受けとめ、そして自らを神にゆだねる信仰へを導かれてゆくだろう。そしてそのように「内なる人を強める祈り」をささげる人の姿は、必ずや次の世代の人々に信仰に生きる希望と豊かさを示してくれるのである。

「神は最後にいちばんよい仕事を残して下さる。それは祈りだ。手は何もできなくても、合掌できる。愛するすべての人の上に神の恵みを求めるために…。すべてをなし終えたら臨終の床に神の声を聞くだろう。『来たれ、わが友、わたしはあなたを見捨てない』と。」(ヘルマン・ホイヴェルス『最上のわざ』)