ヨハネ福音書10:7~18(5月4日)
韓国の旅客船の沈没事故で、いち早く船を見捨てて逃げ去った船長への批判が高まっている。一方、最後まで乗客にライブジャケットを配り続け、自身は海に沈んだ女性乗務員に賞賛の声が上がっている。この出来事は私たちに大きな問いを投げかける。もし同じ状況に立たされたら、あなたはどう行動するのか、と。
「私はよい羊飼い。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」。イエス・キリストの言葉である。この言葉を含むヨハネ福音書の箇所は、牧師就任式でもよく朗読される。そして牧師となる者にその腹のくくり方を迫ってくる。「教会の牧者たる者よ。お前は教会の羊のために命を捨てることができるか?」と。
この問いに「ハイ、できます!」と即答できればとてもカッコいい。しかしそれはまるで「決してあなたを見捨てません」と断言したペトロの姿のようにも思える。はたしてその少し後、ペトロがどうなったかはご存じの通りである。
もし自分がそのように問われたらどう答えるだろうか。「そうしたいし、そうすべきです。でもできるかどうかはその時になってみないと分かりません」。頼りなく思われますか?でもそれが偽らざる、自分の正直な思いだ。
そんな頼りない、弱さを抱えた生身の人間であるが、しかし一方でこれだけは心がけたいと思っていることがある。それは「逃げない」ということだ。羊が狼に襲われた時、羊になり代わって命を捨てられるかどうかはあやしいが、少なくとも羊だけを放り出して逃げ出すことだけはすまい...そう思っている。
もし狼の攻撃を受けるならば、そこに踏みとどまって、せめて一緒にその攻撃を受ける。もし逃げなければならない時は、せめて一緒に逃げる。もしも万が一、滅びなければならない状況が生じたなら(そうならないことを目指したいが)、せめて一緒に滅びる。そういう姿を目指す者でありたいと自らを戒めている。
これから先、ひとりひとりが遭遇するかも知れない人生の苦難や試練、心ふさぐような出来事。それらに対してすべての状況で問題を解決し、悩みを払拭し、黒い雲をひと息で吹き飛ばすことはできないかも知れない。しかしせめて一緒に悩みたい、せめて一緒にうろたえたい、せめて一緒に途方に暮れたいと願っている。
それはひとりで悩むよりも、せめて一緒に悩む方が心が支えられる、安心できる、そう思っているからだ。そして、私たちがせめて一緒に祈るとき、「二人または三人が集まるところに私もいる」と言われたイエス・キリストが、大いなる大牧者として私たちを導いて下さる ― そう信じているからだ。