2016年10月16日(日) こども・おとな合同礼拝
ガラテヤ の信徒への手紙3:26-28
今日の礼拝で、Rさんが洗礼を受けられます。Rさんは今高校3年生。昨年の5月ごろからCSの礼拝に通い、今日洗礼式に臨まれます。先週行なわれた信仰告白会で、お母さんの語られた「人生には理不尽な出来事がある。そんな時に軸となる信じるものを大切に持っておきなさい」という言葉に背中を押されて、洗礼への志を立てたと語ってくれました。
洗礼を受けると、どうなるのでしょう?何が起こるのでしょう?さっき歌った讃美歌69番に「新しく生まれる約束を信じ、祈りつつ洗礼を受けよう、いま」という歌詞がありました。「新しく生まれる」。聖書にも「洗礼によって古い自分が死んで新しい自分に生まれ変わる」と書いてある箇所があります。「えーっ!?Rちゃん死んじゃうの?」いえいえ、そんなことはありません。RさんはRさんのままです。「すぐに変身!」ということにはなりません。
では、なーんにも変わらないのか?そうでもない。今すぐ変わらないけど、でも少しずつ変わっていく。それが洗礼によって「新しく生まれる人生」なのです。
今日の聖書の中に「洗礼を受けたあなたがたは、キリストを着ているのです」という言葉がありました。キリストを着る。イエスさまを着る…。それってどういうことなのでしょう?ひとつ思い出した話があります。
昨年、僕は新しいジーンズを買いました。リーバイスの501の黒いジーンズです。これまではいていた31インチのジーンズがはけなくなったので、買い替えたのです。なぜはけなくなったかって?前橋に来て、なまけて運動不足になり、少し太ってしまったからです。ところがお店に行ってひとつ大きいサイズ(32インチ)を試着すると、ガバガバなのです。それで31インチをはいてみたら、ぴったりでした。少し悩んで決めました。「31インチを買おう。そしてこの31インチに合う身体をキープしよう。」なまけて運動不足にならないようにして、暴飲暴食を気を付けて、このリーバイス501にふさわしい身体を作れるように頑張ろう、と決意したのです。
「キリストを着る」というのもそれに似てるなー、と思いました。イエスさまの教えは私たちを救ってくれる大切なものです。でもその教えの中には、結構厳しいなー、難しいなーと思うものもあります。だからと言って「楽をしたいから、それを守るのはやーめた」となってしまったら、イエスさまを脱いでしまうことになる。自分の思うがまま、好き勝手に生きるのではなくて、イエスさまにふさわしい自分になります!そういう気持ちで生きること、それが「キリストを着る」ということなのです。
完璧でなくてもいい。時々つまずくことがあってもいい。でも「イエスさま」というお洋服にふさわしい自分であろうと思い、新しく生きること。それが洗礼を受けるということなのです。