2016年10月23日(日)
箴言8:22-31 マタイ福音書10:28-31
内田樹さんは人間の宗教性について、「世界の創造に対して自分は絶対的に遅れている、と感じる心のことだ」と語っておられる。この自覚を持つことによって人間は成熟に向けてのスイッチが入る。学びが始まり、師を求める。そうして霊的成熟に至るように人間の知性は構造化されているというのだ。
「感謝をしたいのだけれど、誰に感謝してよいかわからない。この『誰に感謝していいか分からない』という事実こそが、人間が『世界の創造に遅れて到着したこと』の証拠であり、その事実に対して『感謝したい』と思う… そのようなねじれた形で人間の宗教性というものは構成されているのです。」(『いきなり始める仏教生活』)
聖書には、この「遅れてきた感覚」を私たちの内に養う言葉が満載である。大きな広がりを持つ天空を眺めて自分の小ささを想う詩編8編の言葉。ヨブ記では「わたし(神)が大地を据えた時、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。」(38:4)という主の言葉によって、信仰の危機にあったヨブは信仰を取り戻してゆく。
ところが今日の箇所、箴言8章にはそれとは正反対に思える言葉が書かれている。「永遠の昔、私は祝別されていた、太初、大地に先立って。私は生み出されていた、深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。」ここには天地創造のなされる前から、「それに先立って私はいた」という宣言がある。ここには「遅れ」の感覚はない。むしろあらゆる被造物の中で「私がいちばん!」といった自己中心性が貫かれている。この傲慢にも思える言葉を、どう受けとめればよいのか。
実は、信仰の世界においてはこのような逆転がしばしば起こり得る。それは「遅れてきた感性」を究極まで突き詰めて、その先に示される「どんでん返し」の救いの境地である。
親鸞は「阿弥陀仏が長い時間をかけて願をかけてくださったのは、ひとえにこの親鸞ひとりのためである」と語った。仏による救いをひとり占めするような不遜な言葉に聞こえる。しかし親鸞の本意は、「そのようにしてまでこの罪深い人間を救おうとして下さる仏様の何とありがたいことか」というところにある。
「小さなスズメにも目をとめて下さる神さまは、あなたがたのことも見つめ守り導いて下さる。」とイエスは教えられた。天地万物の中で「あなたひとり」に目をとめて下さり、救って下さる方がいる。そのことを信じて生きていきなさい、と教える言葉である。
どんなに世界に対して遅れていようとも、どんなに罪深く過ちの多い者であっても、それでも「この自分」に関わり、導き、救いを与えようと見つめて下さる存在がある… そのことを信じられる限り、私たちはこころ安らかに生きることができる。