2016年10月30日(日)
イザヤ書44:9-17 マタイ23:25-28
前橋市が音頭を取っている「街なか神社・寺院・教会プロジェクトチーム」の相互訪問団が訪れた時に、「他のキリスト教会(カトリック、ハリストス、マッテヤ)に比べて、会堂がシンプルですね」という意見があった。「やはり偶像崇拝を禁ずることと関係があるのですか?」とも。確かにプロテスタントは質素なデザインの特色があるかも知れない。
偶像崇拝の禁止は十戒の中の大切な一節だ。木や石を刻んだ像の中には神さまはおられない、崇拝の対象ではない、と教えられる。しかし一方では教会においてもステンドグラスやキリスト像、マリヤ像、イコン(聖画)といったものが置かれているところもある。安中教会や同志社チャペルには、新島襄や関わった人々の肖像画が掲げられている。偶像崇拝を最も厳しく禁じたイスラム教でも、つる草や花の文様をあしらった独特のアラベスク模様が発展した。目に見えるもの、偶像「的」なものに惹かれる心を人間は持っているという証左であろう。
前述の相互訪問団で訪れたあるお寺では、「本来なら国宝級…」と評される仏像を見せてもらった。平安な心そのものを映し出すようなその像は、とても「いいお顔」をしていた。その像を刻んだ人の祈り、そしてそれに思わず手を合わせた信者たちの思いを偲びつつ拝見させていただいた。この思いを「それは偶像崇拝だ」と切って捨てるようなことは言えない、言ってはならないと感じた。
「偶像崇拝とは刻んだ像を拝む行為そのもののことではなく、刻んだ像を拝もうとする人間の心情のことを言うのだ」という考え方がある。「この像を拝めば願いがかなう、ご利益がある」そのように自分の欲望に仕える神を求める姿勢、それが偶像崇拝だということなのだ。「貪欲は偶像崇拝に他なりません」(コロサイ3:5)。逆に像を拝む行為をしたとしても、そこに「大いなるものへの畏れ」の心があれば、それは偶像崇拝とは異なるものと言ってよいのではないだろうか。
イザヤは偶像崇拝の本質を鋭く暴く。山に入り木を伐り、薪にしてパンや肉を焼き食べて暖まる。「残りの木」で像を刻み「お助け下さい」と祈る…。そのように自分の生活を最優先し、「残りもの」を拝むように祈りを後回しにする姿勢… それが偶像崇拝なのだ!と。
イエスは律法学者やファリサイ派の人々を、「外側はきれいにするが、内側は強欲に満ちている」と戒められた。外見的にはどんなに信仰的に「立派なふるまい」を重ねているように見えても、内側には自分で自分を義とする自己義認の思いがある…そんな「神を畏れるこころ」を忘れた姿を批判されたのだ。
自分の立派さを誇るのではなく、自分の足りなさ・不完全さを認め、そんな自分であっても救いに導こうとされる神を信じ、感謝し祈る。そんな「神を畏れるこころ」を求めて生きることが、私たちを偶像崇拝の誘惑から引き離し、そして私たちを本当の意味で豊かにしてくれる。