『 主が立てられた預言者 』

2016年11月13日(日)
申命記18:15-22、使徒言行録3:20-26

アメリカの大統領選挙は、ほとんどの人が予想しない結果となった。あれほど排外的・差別的な言動を繰り返していた人物が選ばれたという事実に、アメリカという国が直面している苦境が感じられる。

誰もが本音を持って生きている。しかし一方で人類は「自分の本音のまま生きることは、はしたないことだ」という価値観を重ねてきた。ところかまわず、相手が誰であってもわめき散らす振る舞いは「ワガママなガキ」として忌避されてきた。しかし近年「ホンネを言って何が悪い?」と発言する政治家があちこちの国に現れ、そしてそれを支持する人が増えている。

アメリカだけではない。英国のEU離脱、フランスの極右政党の台頭、フィリピンの“暴言”大統領、そしてわが国でも…!? そんな風にみんなが自己中心的に本音を語り出したら、いつか軋轢が生じ衝突が起こり、戦争への道が開かれるかも知れない。

来年1月にアメリカ大統領の座に着く「かの人」の傍らに、面と向かって批判し反対意見を述べる、そんな「叱ってくれる人」の存在がいて欲しいと願わずにはいられない。

聖書の世界には預言者という存在があった。水晶玉に手をかざして未来を占う「予言者」ではなく、神と人との間に立って神の言葉を「預かり語る」という意味での「預言者」である。特に王や権力者が腐敗し、傲慢な振る舞いに走るとき、多くの預言者が現れて神の戒めを語った。「裁きの預言者」たちである。

けれども預言者は「反対意見」ばかりを言っていた訳ではない。逆にイスラエルが他国に支配され、人々が希望を見失っていた時、民の復興への希望を語り、神の言葉によって人々を励ました「希望の預言者」たちも現れた。いずれにしても預言者たちは、人間がその置かれた状況で見失ってしまっていた神のみこころを、少し違う視点から見つめ語る役割を果たしたのだ。

今日の新約の箇所には、ペンテコステの直後に行なわれたペトロの説教が記されている。「あなたがたが十字架につけたイエスこそ、聖書(旧約)の預言者たちが語っていたメシヤ=救い主である」とペトロは語るのであるが、イエスもまたすぐれて預言者としての働きをした人であったと思うのだ。

悪や不正に対しては厳しくこれを批判し、戒めを与える“叱る系”の「裁きの預言者」。一方で絶望し目あてを失っている魂に対しては、これを慰め祝福し希望を与える“褒める系”の「希望の預言者」。叱られ、褒められて、わがままな子どもが育てられ成熟へと導かれてゆくように、私たちもまた預言者イエスによって糺され、養われてゆく。

「主が立てられた預言者」であるイエスの導きを信じ、アドヴェントの備えをしよう。