『 目を覚まして光を待つ 』

2016年11月27日(日)
イザヤ2:1-5, マタイ24:36-44

布団の温もりの恋しい季節を迎えた。冬の朝、起きるまでのまどろむ時間は至福の時である。「眠り」とは不思議なものだ。おおよそ生産的なことは何も生み出さない。その意味でそれは「ムダな時間」である。しかしそのムダな時間が我々には必要なのだ。

逆に眠れない夜は苦しいものだ。不眠の苦しみ、それは自分の存在自体が邪魔になるような辛い体験である。ゆっくり、ぐっすり眠れる…そのムダにも思える時間が、私たちの幸せとつながっている。そしてその時間を確保することによって、私たちは逆に目覚めている時間を有意義に、豊かに過ごせるのである。

預言者イザヤの活動した時代、それは人々がぐっすり眠ることのできない時代であった。北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダはその属国となり下がることによってかろうじて命運を保っている。このような状況を招き寄せたのは、人々が神の戒めに背き、互いの利益のために相争うようになったからだ ― それが預言者の指摘である。

しかしイザヤは「裁きの預言者」ではない。むしろこういう暗い時代だからこそ、神は救いの道を備えて下さる… その思いの中から、みどりごの誕生とインマヌエルの預言を示すのである(7:14)。

今日の箇所では、神の裁きと導きの中で、剣や槍を鋤や鎌に打ち直し、平和を目指して歩む姿を示す。そして「主の光の中を歩もう」と励ますのである。自分たちを取り巻く状況ゆえに、夜ぐっすりと眠ることができない、そんな人々に向かって、イザヤは暗闇の中で光を待ち続けることの大切さを説く。

一方のマタイの箇所は、いつも目覚めていることの大切さを命じるイエスの言葉である。「人の子」すなわちメシア(救い主)が来る時に起こる神の大いなる裁きと救いの出来事を示し、いつそれが来てもいいように眠り込んでしまわすに常に目を覚ましていなさいとイエスは命じられる。

ノアの時代の人々は、まさに滅びに至る予兆を察知できず、洪水に飲まれて滅びていった。彼らは眠っていた訳ではない。むしろ目をギラギラさせて快楽を求めていた。しかし自らの欲望のために、滅びに至るサインを見逃してしまうこと、それが惰眠をむさぼることなのだ。自分たちの見たいものしか見ようとしない姿。そのことで人類はどれだけの災厄を招き入れたことか。

イエスは常に目覚めていることの大切さを説き、そしてその歩みを自ら実践された。どうしてそのような歩みができたのか?何のためにそのような歩みを目指したのか?それは逆説的であるが、「みんながぐっすり眠れる世界を作るため」であった。目を覚まし続けながら、命を賭してこの世界と関わられた。2000年前に我らの世界に来られたイエスこそ、すべての人が安らかに眠れるために神によって遣わされたセンチネル(歩哨)なのである。

私たちはイエスのようなセンチネルにはなれないかも知れない。しかしイエスに従い、目を覚まし続けて世界の滅びを防ごうとする大切さを学ぶことによって、自分の身の周りのことについての「小さなセンチネル」にはなれるかも知れない。目を覚まして光を待つ… その歩みを大切に求めよう。