マルコ福音書5:1~20(6月29日)
聖書にはたびたび、イエス・キリストが悪霊を追い出された出来事が記される。いったい、悪霊とは何なのだろう?悪霊を追い出すとは、どんな出来事だったのだろう?
昔ヒットしたホラー映画「エクソシスト」では、首が180°回ったり、異様な形相が浮かび上がったりと、神から独立した悪魔的な存在として描かれていた。しかし今日の箇所においては、悪霊の方から「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」と叫んでいる。これはイエスに向けて最初になされた「神の子証言」である。
弟子たちや追従者よりも先に、また十字架に立ち会ったあの百人隊長よりも先に、悪霊がイエスを「神の子」と呼び、その権威を認めている。聖書において悪霊とは、映画のような得体の知れないものではなく、もう少しコミュニケーション可能な存在だったのかも知れない。
しかしその悪霊が、ゲラサの人に引き起こしていた症状は、とても気の毒なものだった。一人共同体から追われて墓場に住み、鎖でつながれてはこれを引きちぎり、自分で自分の体を傷つける。悪霊とはそのようにして人を苦しめる力、人を滅ぼす力として描かれる。しかしそれを凌駕する力がある。それがイエス・キリストに顕された神の力、人を活かす力だと聖書は語るのである。
悪霊はイエスに会うと慌てふためき、たまたま目にした豚の大群に乗り移らせて欲しいと願い出る。イエスがお許しになると、豚はなだれを打って湖に飛び込み、死んでしまった。異様な光景である。「豚は汚れている」というユダヤ人の意識が物語に反映しているのかも知れない。何とも気の毒な豚たち。しかし、自らの死と引き換えに癒しをもたらす姿は、イエスの十字架と重なるものにも思えてくる。
物語の最後に記されたエピソードは、温かなものを感じさせてくれる。癒されたその人がイエスについて行くことを願ったところ、イエスは「自分の家に帰り、神がして下さったことを語りなさい」と言われた。「あなたには帰るところがある。家族との交わりのもとで、もう一度人生をやり直しなさい」ということだ。
どうすれば悪霊の癒しは起こるのか?「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことはできない」(マルコ9:29)というイエスの言葉がある。祈りの力。それがイエスの「悪霊払い」を支えた力なのである。
悪霊はしばしば私たちを滅ぼそうとして現れる(災害、病気、罪、死)。私たちは自分一人の力でそれに打ち勝つことはできない。しかし神の力はそれを凌ぎ、悪霊に勝利される。その神を信じて祈るとき、私たちは再び命の道へ立ち戻れるのだ。