2016年12月18日(日)
イザヤ7:10-14, マタイ1:18-23
先日、出張に出かけた際に新幹線の中に忘れ物をした。お気に入りの軽量のマイクスタンドだった。「きっと出てくるだろう…」と期待したが、JRに何回問い合わせても「お探しのものはありません」。そんなはずはない、と思ったが、どこかであきらめかけていた。「これだけ探して出てこないなら、新しいものを買おうか…と。
すると夢枕に友人の牧師が現れて告げた。「アホやなぁ、なんであきらめる!?途中で駅から出てないんやったら、どこかにあるはずや!あきらめたらそこで終わりやで…」。夢のお告げを受けて、次の日ダメもとでもう一度問い合わせた。すると「お探しの物らしき忘れ物の登録があります」との答え。「やったーっ!」はたして2週間ぶりに大事なマイクスタンドは手元に戻ってきた。
あきらめずに求め続ける。探し続ける。そうすることで道が開かれることがある。「信じる」とはそういうことではないだろうか。
アドヴェント第4週である。アドヴェントは「待つ」季節だ。神が約束された救い主を待ち続けたユダヤの民。そんな彼らの心に思いを寄せながら、私たちも救い主の誕生を待つ。キリスト教は「待つ宗教」だとも言える。
昔歌ったこどもさんびかに「むかしユダヤの人々は… とうとい方のお生まれを何百年も待ちました」というものがあった。何気なく歌っていたが、これはすごい信仰が歌われていると気付いた。「何百年も待つ信仰」。 それは自分の世代では救いの到来を知ることはできないかも知れないということだ。それでもあきらめずに待ち続ける人たちがいた。それはまさに「信じるほうに賭ける人」の姿である。
今日の聖書の箇所は、ヨセフが婚約者マリアに幼な子が宿ったことを知る場面である。婚約相手が自分以外の誰かの子どもを宿した…。この事実を知って、ヨセフはひそかに縁を切ろうとした。申命記22章の規定に基づくならば、マリアは相手の男と一緒に石打ちの刑に処せられる立場となる。しかし婚約を解消すればその限りではない… ひょっとするとそのようにしてマリアを守ろうとしたのかも知れない。
するとその日、夢でヨセフにお告げがあった。「マリアに宿った幼な子は聖霊によるのである。その子は民を罪から救う者となる」。このお告げを受けて、ヨセフはマリアを妻として迎える決意をする。一度は関係を清算しようとしたヨセフであったが、お告げによって心を改めるのである。
夢でのお告げ。なんの確証もない、雲をつかむような実証性のない事柄である。それでもヨセフはマリアを受け入れる決心をした。いわば彼は「信じる方に賭けた」のである。この信仰による決断の中で、救い主はこの世に生まれたのだ。
国会でカジノ法案が成立した。国家の行く末を、モノ作りのような実体経済ではなく、賭博のようなあぶく銭に託すような国策には反対だ。しかし私たちもある種の「ばくち打ち」なのかも知れない。パスカルが言うように「信仰とは一種の賭け」だからである。信じれば願いが叶う・道が開かれるとは必ずしも限らない。それでも信じる方に賭ける… そのような心持ちが「何百年と待つ」信仰を支えたのである。