『 頭に手を置いて祈る 』

2017年1月8日(日)
サムエル上16:1-13a, マタイ3:13-17

子どもが生まれると、両親の申し出を受けて幼児祝福式を行なうことがある。幼な子の頭に手を置いて、その全人格・全存在に神の祝福を願い、祈りをささげる。イエスが幼な子を受け入れて、頭に手を置いて祈られたように。

洗礼式もまた、頭に手を置いて祈る儀式だ。「水で洗われる」「罪が洗い流される」という方に重きが置かれがちであり、それはそれで大切なポイントだが、一方で「頭に手を置いて祈る」儀式でもあるのも大切な意味合いだと思う。

今日の聖書の箇所は旧約・新約いずれも、頭に手を置いて祈る場面を記したものだ。サムエル記上は、あのイスラエルの歴史上最も偉大な王と呼ばれたダビデの物語である。まだダビデが頭角を現す前、年若き少年だった時に、預言者サムエルに選ばれて、サウル王の後継者となるべく任じられた。その時、サムエルはダビデの頭に油を注いだ。

「油注がれし者=マシアーハ」という言葉は、やがて神が遣わす救い主=メシアを指す言葉となっていった。少年ダビデの頭に油を注ぎながら、サムエルは頭に手を置いて祈りをささげたことだろう。その祈りが彼の人生を新たな局面へと導いてゆく。

一方の新約の方は、イエス・キリストの受洗の場面である。イエスはバプテスマのヨハネからヨルダン川でバプテスマを受けられたことが記されている。これを読んで不思議に思う人がいるかも知れない。イエスが救いを与えるために人々に洗礼を授けた、というのではない。神の救いと赦しを受ける儀式であるバプテスマを、救い主であるイエスが受けられた、というのだ。

ヨハネも同じ不思議さを感じたのだろう。「なぜあなたが私からバプテスマを受けるのですか?」と尋ねている。しかしイエスは「今は受けさせてほしい」と言われた。バプテスマを受けることは、イエスにとって信仰生活のゴールではなく、宣教活動のスタートだった… そんな意味合いが一方にはある。

しかしもうひとつ思うことがある。「誰かに頭に手を置いてもらいささげられる祈り」、イエスにもその祈りが必要だったのではないだろうか。

教会の教師(牧師・神父)を任命する「按手礼」という儀式がある。「権威の授与だ」と言ってこれを批判する人もいる。確かに中世にはそのような意味合いを持ったこともあっただろう。しかし元々の意味合いは、宣教の働きを担う同労者として、その歩みを支え励まし、共に歩もうとする願いを込めた儀式であったと思うのだ。

私の書斎に一枚の写真がある。30年前に自分が按手を受けた時の写真である。七名の先輩牧師に手を置いて祈ってもらった。そのうち3人はすでに故人である。この写真を時々眺めることがある。特に牧師としてしんどいこと、つらい思いを抱いた時。写真を見つめていると先輩たちの声が心に響いてくる。「つらいだろう。その気持ちはよく分かる。でも頑張って歩んでいこう。それが私たちの働きなのだから。私たちも一緒に歩むから。」頭に手を置いて祈りをささげてもらった、その経験が、試練の中で自分を支えてくれるのを思う。

これから厳しい宣教の歩みに出かけるイエス。最後はエルサレムのゴルゴタで十字架に向かって進む歩みだ。そのイエスにとっても、誰かに頭に手を置いて祈ってもらう、その祈りが必要だったのではないだろうか。

実際の私たちの信仰生活においては、頭に手を置いて祈るということが行なわれることは多くはない。しかし、互いに重荷を担い合い、相手の健闘を願って祈る… そんな祈りを互いにささげあう関わりは大切にしながら、共に歩む者となりたい。