2017年1月15日(日)
エゼキエル2:1-3:4、黙示録10:8-11
元旦の日曜日、CS礼拝がお休みだったので、礼拝前に「聖書を読む会」に参加し、Sさんと二人で出エジプト記を読んだ。聖書を音読して、改めて感じたことがある。聖書の言葉(み言葉)が、黙読するのとは違った迫り方をすることがあるのだ。
黙読は目で(脳で)読む。それは自分の理解・認識が先行する読み方であり、早く読める。場合によっては無意識的に「読み飛ばし」しているかも知れない。それに対して音読は声帯を(身体を)使って読む。読み飛ばしも出来ないので時間がかかるが、その分読んだ内容が「外から」届くような感じがする。「外部から届くメッセージ」。それは宗教において大切な意味合いを持つ概念である。時には身体性を伴う形でみ言葉を読むこと、それはとても大切な経験だと思う。
今日の聖書箇所は、もっと大胆な驚くべき形でみ言葉を受けとめる人の姿が記されている。それは「み言葉を食べる」ということだ。そうは言っても聖書をいきなりムシャムシャと食べるわけではない。受験生が辞書のページを破って食べたくなるように、熱心にひたむきにみ言葉を受けとめる振る舞いを、比ゆ的に表した言葉であろう。
エゼキエルは、バビロン捕囚の原因を作った「反逆の民」に神の言葉を告げよ、と命じられる。人が拒もうと、反発しようと、語るべきことを語れ、と。これはなかなか辛い仕事である。その働きに遣わすにあたって、神は「巻物を食べなさい」と言われた。エゼキエルが食べると「それは蜜のように甘かった」と記される。
エレミヤも同じような体験をしている。「(み言葉を食べると) それは私のものとなり、心は喜び、踊った」(エレ15:16)とある。しかし、しばらく後には「私が語ろうとすればそれは嘆きとなり… 主の名を口にすまいと思っても、主の言葉は私の中で火のように燃えあがります」(20:8-9)と語る。み言葉を受け、心が躍った体験が、やがて後の日には嘆きになる、というのだ。
黙示録の著者・ヨハネもまた「み言葉を記した巻物を食べなさい」と命じられる。ヨハネが食べると「それは口には蜜のように甘かったが、腹には苦かった」と記されている。これはエレミヤの体験と重なるように思う。主のみ言葉は、それを文字で読み耳で聞いた時には「すばらしい!」と思えても、それを実際に生きようとすると、必ずしも心地よいことばかりとは限らない… そんな真理を示しているのであろう。
例えば「自分を愛するように隣人を愛しなさい」というイエスの最も大切な教えを、私たちは「本当にそうだ」と思って受けとめる。しかしそれを実行するのは難しい。「敵を愛し迫害する者のために祈りなさい。互いに赦し合いなさい」という教えに至ってはなおさらだ。それは「腹に苦くなる」のだ。しかし「実行困難だから」と言って、その教えに見切りをつけてしまったら私たちの霊的な成長はない。
教会には、比ゆ的な意味ではなく、本当に「み言葉を食べる」儀式が存在する。聖餐式だ。説教・メッセージが「見えないみ言葉」であるのに対し、聖餐式のパンとぶどう酒は「見えるみ言葉」とされる。聖餐式を「罪の赦しを与え、永遠の命を約束する儀式」とだけ見るならば、それは「口に甘い」。しかしイエスは「私に従う者は、自分の十字架を背負って従いなさい」と命じられた。この教えの下に立つとき、それは「腹に苦くなる」。けれどもその道を歩むことが、私たちを本当に豊かな生き方へと導いてくれるのだ。
「良薬は口に苦し」とも言うが、甘いもの、心地よいものだけでは私たちの成長は導かれない。「口には甘いが腹には苦い」そんなみ言葉との関わりを大切に歩みたい。