2017年1月22日(日)
イザヤ8:23b-9:3,マタイ4:12-17
ユダヤ教からキリスト教へと続く信仰の系譜は、闇のような絶望の中で、それでも光を(救いを)見ようとする、そんな信仰のたたずまいを備えている。出エジプトの物語、王国後半期の常に大国に支配を受けていた時代、そしてイエスの時代にはローマ帝国による圧政…。まさに苦難の歴史の連続である。
後にキリスト教会は世界宗教となり、中世においては国王をも凌駕する権力を持つ組織となったが、聖書の記された時代は、ヤーウェの神を信じる人々が、絶望の暗闇の中で何も力を持たず、だからこそただ神により頼むしかなかった、そんな時代だった。そんな中で「それでも光を見ようとした」信仰の記録、それが私たちの手にする聖書という書物なのである。
イザヤ書の箇所は、アドヴェントによく読まれる言葉である。近くに出現した新興大国・アッシリアによる圧政、それによって北パレスチナ・ガリラヤ地方は異邦人の文化や風習にさらされることになった…。自らを「選民」と意識するユダヤ人にとっては、それは屈辱的な出来事であった。しかしそのような辱めを受け、暗黒の暗闇に置かれた人々に光が与えられる… そのような言葉でイザヤは神の救いの到来を語る。そしてその光をもたらす「ひとりのみどり子」の誕生を預言するのである。
そのイザヤの預言が現実のものとなった… そんな形でマタイはイエス・キリストの宣教の始まりを記す。「預言者を通して言われていたこと(聖書に記されていること)が実現するためであった」という記述は、マタイの得意とするところであった。
ところで、同じイエスの宣教開始を伝えるマルコの記述と比べて、少し違うところがあることに気付かされる。マルコは「ヨハネが捕らえられた後、イエスは宣教を始められた」と記す。権力者相手でも臆することなく真実を語り、それ故に捕らえられ最後には処刑されたバプテスマのヨハネ。そのヨハネの活動を引き続かのように活動を始める息吹が感じられる。
ところがマタイは「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」と記す。一旦退却、とも受けとめられる描き方である。私は若い頃はマルコ的なイエス、つまりヨハネが受難するような状況に怯むことなくまっすぐに向かってゆく姿に共感を覚えた。しかし齢を重ねるに従って、「ここは無理せず一歩引いて…」というのもアリかな、と思うようになった。
どんな苦難が待ち受けていようとも、恐れを抱かずひたすら進む… そのような姿は確かに凛々しいし「カッコいい」。しかし、別の見方をすれば、それは無謀な「滅びの美学」であり、「緩慢な自殺」であるとすら言える。ここは敢えて一歩引いて、体制を整え仲間を増やして、次の局面に備えていく…。「闇の中に光を見ようとする者」には、ただ神を愚直に信じる「ハトのような素直さ」だけではなく、状況を冷静に見定める「ヘビのような賢さ」も必要だと思う。
映画『沈黙』で描かれる“かくれキリシタン”たちの姿。それは「立ち向かう」のではなく「潜伏する」、そのような形で信仰を保とうとする姿である。それもまた「闇の中にまたたく光」を求めようとする、信仰者のひとつの生きざまだと言えるのではないだろうか。