2017年2月5日(日)
イザヤ6:8-13、マタイ13:10-17
精神科医の名越康文氏がご自身のツイッターでこんなつぶやきを記しておられた。「『心を閉ざす』とは、どんな人でもボタンを押せる最終兵器だ。とても効果的なのだが復讐的でもある。つまり自らの活路を閉ざしてしまう『死なばもろとも作戦』なのだ。」
確かに私たちはそういう振る舞いを時折してしまっている。自分の聞きたくない言葉に耳を閉ざし、関わりたくない人との関係を絶つ、そうすることによって一時はストレスから解放される。しかしそうすることによって、自分の中でも何かが失われ、何かが壊れていく、ということだろう。
人間は「関わり」の中に身を置きながら生きてきた生き物だ。みんなが同じ思いを持つわけではないが、違いを超えて何とか折り合いをつけながら生きる…そのために私たちは言葉を持ったのだ。そうすることで他者と何かを共有し、成熟へと導かれ、生きるエネルギーを与え合って生きていく。
しかし心を閉ざすことによって、自分自身のいのちをも貧しくしてしまう…それが「死なばもろとも作戦」だ。私たちは神の言葉に対しても、無意識的にその最終兵器のボタンを押してしまってはいないだろうか。
イザヤの召命の場面で、「私をおつかわし下さい」と名乗り出るイザヤに対して、神は不思議な言葉を語られる。「この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。」これは不思議な言葉だ。私たちはふつう、「よく聞いて、理解せよ」と語るのではないか。
しかし正反対のことを主は語られる。これは、既に人の心の中に「神の言葉に心を閉ざす」そんなマインドが備わっていることを示しているのかも知れない。しかし「それでも語り続けよ」と主は命じられる。これはなかなか大変な仕事だ。
一方の新約は、「たとえで語るイエス」の姿を解説する箇所である。ここでイザヤ書の言葉が引用される。「あなたたちは聞くには聞くが理解せず、見るには見るが認めない」、だから私はたとえで語るのだ、とイエスは言われる。理解力が乏しく、すぐに心を閉ざしてしまいかねない民衆に、それでも語りかけて下さるイエスの姿がそこにある。
私たちもしばしばイエスの教えや神の言葉に心を閉ざしてしまう。それはその教えが分かりにくいから…ではない。よく分かっているのに、理解しているのに、それでも心を閉ざす。「互いに愛し合いなさい」「赦し合いなさい」と言われて、理解できても、「そんなのはいやだ!」とまず自分を大事にする思いとふるまい。しかしそのことで自分の命を貧しくしてしまってるのではないだろうか。
しかしそんな私たちに、それでもイエスは、そして神は、語りかけて下さる。「あなたは決してそこに閉じこもってしまっていい人じゃない。もっと心を開いて、心豊かに生きる者となりなさい、なれるはずだ」と。その招きに応える歩みを、大切に求め続けてゆきたい。