2017年2月26日(日)
マタイによる福音書14:22-36
ジョン・レノンがビートルズ解散直後に作った“God”という歌がある。「ジョン・レノンファンの牧師」として、どうとらえればいいか考えさせられる曲である。
歌の途中で、人々が様々な形で信じる思いを寄せてきたものを次々に否定する部分がある。「私は聖書を信じない。キリストも、ブッダも、マントラも、ヨガも、ケネディも、M.L.キングも、エルヴィスも、ボブ・ディランも、そしてビートルズも信じない」。そしてこう続く。「私はただ私を信じる。ヨーコ(ジョンの妻)と私だけを…」。→ こちらで視聴可(You tube)
この歌をどう受けとめるのか。同じくジョンレノンファンである友人の牧師と話していた時、彼が言った。「自分を信じられないヤツが、神さまを信じるなんてできないやろ」。「なるほど!」と思わされた。
私たちは「神を信じたい、イエスを信じたい!」という願いを持って礼拝に集っている。しかし一方で、私たちは自分を信じているだろうか?信じようとしているだろうか?
今日の箇所は、大変不思議な奇跡物語だ。イエスが湖の上を歩かれたというのだ。しかもマタイ福音書においてはイエスだけではなく、ペトロもイエスに招かれるまま船を離れほんの少しだけ水の上を歩けたと記される。しかし強い風で波が荒れると恐れを抱き、沈みそうになった。イエスはペトロに手を差し伸べて言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。
この箇所を読むたびに思い出す幼い日の体験がある。初めて自転車に乗るとき、うしろを親に持ってもらって何とか乗ろうとする。「離さんとってよ、離さんとってよ…」「わかってる、わかってる!」その声を信じてペダルをこぐと何mか進めた!しかし次の瞬間、後ろの大人が手を離していることに気付くとふらついて倒れてしまった。「支えられている自分」を信じられた時、出来なかったことが出来るようになる。しかし疑いを持った瞬間、倒れてしまう。
ペトロはイエスを信じていた。すると水の上を歩けた。その時彼が無意識に信じていたものがあったと思う。それは自分自身である。しかしその自分への信頼が崩れた時、水の上を歩く力も引っ込んでしまった。
「なぜ疑った?」と手を差し伸べたイエス。ふと、「どんな表情をしておられたのだろうか?」と想像する。厳しい、怒った顔でそう言われたのだろうか?私はむしろ、微笑むイエスの顔を想像する。「惜しかったなぁ。でも少し歩けたじゃないか。自分を信じてもういっぺんやってみぃ!」と。
たとえ一瞬信じられたとしても、すぐに沈んでしまう私たち。でも、失敗してもいいのです。何度も沈み、何度も転びながら私たちは歩き方、進み方を憶えてきたし、これからも憶えていくのだから。
自分への過信は戒めなければならない。しかし「この弱い私を神が支えていて下さる」、その自分を信じることは大切なことだ。それがそのまま、神を信じることにつながっていくのだから。