『 石をパンに変える誘惑 』

2017年3月5日(日)
申命記30:15-20, マタイ4:1-11

今年もレント(受難節)の季節を迎えた。「禁欲」とか「節制」「精進」ということが性に合わない性質なので、本音を言えばニガ手な期間だ。しかし一方で、自分の疚しさや悪しき部分、罪といったものに気付かずに生きるよりは、きちんと自覚しておくことも大切だと思う。それらを捨て去ることは出来なくても、自分の中にそれが「ある」と意識して生きることと、意識しない生き方とでは、大きく何かが違ってくる。

幼い頃「何で神さまは人間を“罪を犯さない存在”として作られなかったんだろう」などと思ったものだ。しかし齢を重ねるに従って、「神は罪を犯し得る自由をも持つものとして人をお造りになった」と受けとめるようになった。人の罪や過ちがひとつもない世界、それが「神の国」なのかも知れないが、そんな世界は案外「たいくつな世界」なのかも知れない。

「わたしは生と死、幸いと災い、祝福と呪いをあなたの前に置く」(申30:15)と神は言われる。その中からふさわしいものを選び取れ、と。神は無理やり命の道、幸いの道、祝福の道へと我々を押しやるのではない。「それはあなたが選び取る歩みなのだ」と言われるのだ。私たちは、自らを罪へと誘う誘惑や試練の中で、自分で道を選び取って生きていかねばならない。そのことを改めて自らに問うのがレントにふさわしい振る舞いだ。

イエスも公生涯に入る前に、荒野で40日間サタンの試みに遭われた。ということはイエスもまたひとりの人間として、罪に誘惑される心を持っておられたということだ。サタンの誘惑は次の3つ。①石をパンに変える誘惑(自らの欲望に従って生きる誘惑)、②神を試す誘惑、③栄華や名誉のために大切なものを捨てさせる誘惑。この3つの誘惑にイエスは打ち勝たれた。

今日はその中の「石をパンに変える誘惑」に注目したい。「手品じゃあるまいし、石をパンに変えるなんでできないさ」と私たちは思う。しかし人類の開発した科学技術はそれを可能にする。その象徴が原子力だ。ウラン鉱石の核分裂に伴うエネルギー、それが人間の生活に必要な「パン」を生み出すのだ。

しかしその技術は同時に、大量破壊や、大量の毒物(放射性物質)を作り出す。「そんなの構うもんか。オレたちは生きていかなきゃならないんだ。生きていくためにはパンが必要、そのためなら何でもする」… これが「石をパンに変える罪」である。この誘惑に対して、「私たちはいのちの道を選ぶ。そんなものはいらない!」と言えるかどうか、そのことが問われている。

イエスはサタンの誘惑に打ち勝たれた。それは「人はパンのみではなく神の言葉によって生きる」という信仰によってであった。自らの欲望に絡めとられてしまい易い私たち。だからこそ神の言葉によってそれを乗り越えさせていただき、いのちの道へ歩むことが必要なのだ。