『 試練の道 』

2017年3月19日(日)
ヨブ記1:6-12、Ⅰペトロ4:12-19

「♪思い込んだら試練の道を、行くが男のど根性♪」というアニメの主題歌で育った世代である。毎週の歌声によって人生には「試練の道」が必要だということが刷り込まれていった。いつの頃からだろう、スポーツ選手が「今日はゲームを楽しめました」と言うようになったのは。そこでは「試練の道」など、過去の遺物なのかも知れない。

試練や苦難から人を遠ざける装置に囲まれた現代文明を、哲学者の森岡正博氏は「無痛文明」と名付けた。そこには痛みを避けることがはたして本当の人間の幸せにつながるのか?という問いかけがある。温室であたためられ虫や病気を避けるために薬漬けにされる中で咲いた花。それは確かに艶やかに映るかも知れない。しかし新島襄が好んだ「庭上一寒梅」の美しさはそこにはない。

「古い!」と言われようと、敢えて言わせていただくならば、「試練の道がある、ということを忘れない方がいい」。なぜなら、よほどの幸運な人でない限り、人生には何らかの形で試練の道が待ち受けているからだ。

ヨブ記は「試練の道」をそのままテーマにした物語である。この物語は試練が「なぜ」与えられるか、その理由や原因については語らない。「試練の道」がヨブを「どこに」連れていこうとしているかを語るのである。「試練の道」の中でなお神の声を聞こうとする信仰。それがユダヤ民族の宗教心となり、「ご利益宗教」とは異なる地平を切り拓くものとなっていった。

新約聖書においては、さらに試練や苦難の道を「煩わしいもの」ととらえず、むしろ喜びなさいと勧められている。「あなたがたを試みる火のような試練を、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。」(Ⅰペトロ4:12)この種の言葉を私たちはいくつでも拾い上げることができる。(ヤコブ1:12,Ⅰコリント10:13,エフェソ3:13,ローマ8:17,フィリピ1:29,etc..)

新約聖書がこのようなメッセージを記す理由は二つある。ひとつはイエス・キリストが苦難の道を歩まれた ― そのことがまっすぐ人間の救いにつながっているという信仰を抱いているからだ。もちろん私たちはイエスと同じような苦しみを背負うことはできない。しかし私たちが体験する苦しみの思いに、イエスの苦難の道を重ねることによって、ひとつのこれまでになかった信仰の地平を味わうことができる。それは「私と共に苦しんで下さる神」「私と試練を共にして腐る神」の姿である。

もう一つの理由は、初代教会が体験した迫害の苦しみだ。ヨブは信じている「のに」苦しみに遭ったが、初代教会のクリスチャンは信じている「からこそ」苦しみを背負わされた。その苦しみの中に新たな意味を見出し、そしてそれを喜ぶ道を求めていった。それが人々の霊的な成熟を生み出してゆく。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。そしてこの希望は私たちを欺くことがありません。」(ローマ5:3)

初代教会や『沈黙』のような試練の道は、できれば起こらないでほしいと思う。しかしすべての試練を避けようとするのでなく、むしろそれをしっかり受けとめられる心の備えを怠らない者でありたい。なぜなら「試練の道」を避けずに進んだ人は、自分が成長させられてゆくだけでなく、同じように試練に遭う人の思いに共感し、支えることができるからだ。

「事実、イエス御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ2:18)