2017年4月16日(日) イースター礼拝
マタイによる福音書28:1-8
「わが神、わが神、「なぜ私を見捨てられるのですか!」イエスはそう叫んで息を引き取られた。それは絶望の叫び、この世の苦痛の極みだった。弟子のひとりが急いでイエスの遺体を引き取り墓に納めた。日が暮れると安息日、葬りの営みができなくなるからだ。そして安息日が明け、さらに翌朝の夜明けまでの一日半、人々はイエスの死を悼み過ごしていた。大地は嘆きに包まれ、人々は歌を忘れ、音が鳴りやみ沈黙が世界を覆った。もう夜明けは二度と来ないのかもしれない… そんな嘆きの夜をまんじりともせずに過ごしていたことだろう。
しかしそれでも時は流れ、東の空に夜明けが訪れる。女たちは夜が明けるとすぐ、墓に向かった。金曜日の夕方、急いで墓に納めたので葬りの準備をきちんとすることができなかった。「だから、せめて香油を…」との思いで墓に出かけた。
すると… 墓の入り口の石がどけられ、中は空になっていた。代わりに白い服を着た天使が現れて言った。「恐れることはない。あの方は復活なさってここにはおられない。今すぐガリラヤに行きなさい。そこでお目にかかれる」と。女たちは驚き、恐れた。しかしその恐れがやがて大きな喜びに変わる朝がやってきた。神はイエスを死の闇に捨て置かれなかった。イエスはよみがえり、新しいいのちとなられたのだ!そう信じる信仰が導かれていった。
よみがえりのイエスと、弟子たちとの復活顕現の場所として「ガリラヤに行きなさい」と語られていることに注目したい。ガリラヤとはどこだろうか?パレスチナ北部、イエスのふるさと、「辺境の地」と呼ばれたガリラヤ地方… ただその場所だけを指すのだろうか?私は「ガリラヤ」とは単なる地域名ではなく、イエスのいのちの歩みが最も豊かに鮮やかに示された場所、イエスと人々とが出会い、交わり、いのちが育まれた関わりのことを指す言葉だと受けとめている。
貧しい人、病める人、仕事や民族や性別故に軽んじられていた人々…イエスはそんな人に希望を与え、神の祝福を届けられた。「ガリラヤ」とはそんな人たちがイエスと出会った場所、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」そんなイエスの教えがいきいきと息づいている場所のことではないだろうか。
受難週の月曜日、92歳で主のもとに召された教会員のSさんの葬儀が行なわれた。大学の音楽科の教授として、群馬の地で音楽を志す若者たちを教え導かれたSさん。その生きて働かれる肉体の姿に私たちはもうお目にかかることはできない。しかし、Sさんの「いのち」には出会うことができると信じる。それはSさんにとっての「ガリラヤ」に向かうこと。Sさんが最も大切にされたことを、残された者が同じように大切にし追い求めること。そうすることによってSさんの「いのち」と出会い、それを引き継ぐことができるのだ。
よみがえりのイエスは、巨大なエルサレムの神殿にも、華麗なバチカンの寺院の中にも、山の上にそびえたつキリスト像の足元にもおられない。イエスが最も大切にされたことが実現されている場所、受けつがれている場所、それが「ガリラヤ」なのだ。そのような交わりの中で私たちはよみがえりのイエスのいのちと出会うことができる。その時、悲しみの沈黙は破られ、喜びの歌に変えられてゆくのだ。
沈黙はやがて 歌に変えられ
深い闇の中 夜明け近づく
過ぎ去った時が 未来を拓く
いのちの終わりは いのちの始め
おそれは信仰に 死は復活に
ついに変えられる 永遠の朝
その日 その時を ただ神が知る
(讃美歌21-575)