『 小さくされた者の側に立つ ~ 弱さを誇ろう 』横堀昌子

2017年4月30日(日)
マルコ12:28-31、Ⅱコリント12:9-10

「誰も友だちになってくれる人がいないような人の友だちになりなさい」亡き父・横堀哲夫が幼少期に語ってくれた、今も心の中に息づいている言葉である。そんな父、そして母の関わる施設で、家庭を必要とする子どもたち・大人たちと過ごす日々の中で、人が人として生かされている交わりのまん中に神さまがおられる尊さを肌身で感じて育った。

大学を卒業し、都内の児童養護施設で働いた。考えられないような虐待を受けた子どもたちと共に祈り、「いかにあなたが大切か」ということを伝えてきた。ある時食前の祈りで、ひとりの子がすべての人のことを祈る長い祈りをささげた。虐待を受けた子どもがその傷を負う中でみんなのために祈り、それをみんなが聞いている姿。それはひとつの奇跡だと思った。人間にはいろんな弱さがあり葛藤がある。でも大丈夫、大きな手のひらがある…そんなことを感じさせられた出来事だった。

横堀ホームにはいろんな人がやってきた。その中のひとり、以前ホームレスだった方。庭木の手入れをしてくれたある日。母が「あぁ今日は本当にいい日。○○さんが来てくれてよかった」と言葉をかけると、その方は肩を震わせて泣いた。そのような言葉を小さなときから誰からも言われたことがなかったのだ。「そんな言葉をかけてもらえる日が来るとは思わなかった」と号泣するその姿を見て、「神はこの人の中におられる」そう思った。「涙と共に種をまく人は、喜びの歌と共に刈り入れる」(詩編126)そんな尊い場面を見せてくれる出会いが何度もあった。

人間の平等・公平とは何だろう?単に「みんなが同じ」ということではなく、それぞれに必要なものが与えられること。“Human Rights”それは人間から見た横並びの関係ではなく、神が正しいとされること。神が見ておられる下で同じ人間として生きる。それが「人権」であり、だから誰が何と言おうと人間には権利がある…キリスト教社会福祉のそんな考え方に共鳴をしている。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」そのような他者との関わりによって自他共に支えられ、共に生きることが「愛」だと阿部志郎氏は語った。「社会福祉実践は呻きへの応答だ」とも。イエスは人が痛みを負わされる現実に憤り、そしてその人を深くあわれまれた。そんなイエスの姿を、本田哲郎神父は「サービスをする側ではなく、受ける側に主は立たれる」と語られた。

「誰かが弱っているなら、私は弱らないでいられるでしょうか」(Ⅱコリント11:29) そんな関わり・支え合いが、本当の力を与えてくれる。ひとりひとりの人間は弱さを持っている。しかし神さまはその弱さを補い合い、全体を通して成り立つように、という宿題を与えられているのだと思う。細い稲わらを束ねた綱。鋼鉄の強さはないが、しなやかな強さを持つ。それが「共に生きる」強さである。

(文責=川上)