2017年5月28日(日) 昇天日
ルカによる福音書24:44-53
映画監督の犬童一心さんが、東京・井の頭自然園の人気者で昨年69歳で亡くなったソウのはな子のことを新聞に書いておられた。久しぶりに自然園を訪れると、いつもの象舎はあったが、もちろんはな子はいない。誰もいない運動場に葉桜が揺れているだけ。ふと気付くと、自分たちと同じように所在なさげに象舎を眺める人が何組も。「いるときより、いなくなって、よりいっそうはな子の役割が浮かび上がったような気がした」そう記しておられた。あたり前のようにそこにいた存在が、いなくなることによって、より一層強い心の思い出としてよみがえり、寄り添ってくれる…。そんな心象が語られ、小さな感動を覚えた。
「そうか、もう君はいないのか」。これは小説家・城山三郎さんの本のタイトルだ。城山さんに先立って亡くなられた妻の容子さんとの思い出を綴った遺稿である。「容子がいなくなってしまった状態に、私はうまく慣れることができない。ふと、容子に話しかけようとして、われに返り、『そうか、もう君はいないのか』と、なおも容子に話しかけようとする。」
その人はもうそこには存在していない…。手を触れたり、言葉を交わし合うことはない…。にもかかわらず、存在している時よりも、もっと強くもっと深く、その人とのつながり・関わりを感じさせられる…そんな体験がある。そのような関わりによって自分が支えられ、励まされる人はさいわいである。
今日は「昇天日」。十字架の死よりよみがえったイエスが、天に昇られたことを記念する日だ。マタイ福音書は「わたしはいつもあなたがたと共にいる」というイエスの言葉をもって終わる。一方、ルカ福音書では、弟子たちの目の前で天に上げられるイエスが描かれる。ルカ福音書の続編にあたる使徒言行録の冒頭では、昇天によってイエスが不在となり、茫然と天を見上げている弟子たちの姿も描かれている。
マタイは「世の終わりまでずっと共にいるイエス」を記し、ルカは「天に上げられもうここにはいないイエス」を描く。はたしてイエスは、共におられるのか、いなくなってしまうのか、どちらなのだろう?これは矛盾でも、二者択一の対立でもなく、「イエス・キリストを信じ、神の導きを信じる信仰の、広がり・幅広さを示す食い違い」ととらえればよいのではないか。即ち、「イエスはいつも共にいる」「いるけどいない」「いないけどいる」、そんな受けとめ方・信じ方である。
直接教えを請い、手を携えて進むべき方向へ導き、文字通りフィジカルな意味で「ドン!」と背中を押してくれる… そういう存在としては、「イエスはもういない」。しかし、聖書に記されたイエスの教えを読み、その生き様に触れ、信じて祈る時に、本当に身近にいるような近さで「イエスはいつも共にいる」。フィジカルな意味ではない形で私たちの背中を押してくれる…。そう信じて生きるのがクリスチャンの生き方というものではないか。
「師(イエス)の不在」、それは弟子たちにとって痛恨の出来事だ。心底頼りにしていた導師を失い不安と迷いの中に置かれる日々も少なくないだろう。しかしその状況を、イエスとの関わりをより強くより深く感じる機会とすることができたならば、彼らはそこでより大きく成長できるであろう。なぜならそれは、もはやイエスにもたれかかる歩みではなく、イエスと共に、しかし自分の足でしっかり進む歩みだからである。
師の不在という状況を、師と一体となり共に歩む道のりと読み替える。「そうか、もう君はいないのか」とつぶやきつつ、いつまでもその「君」と共に歩む。そんな営みの地平の果てに、神に祝福されたその人自身の救いに満ちた人生が広がってゆく…。そのことを信じよう。