『 分かたれた民がひとつにされる 』

2017年6月4日(日) ペンテコステ礼拝
創世記11:1-9,使徒言行録11:1-4

人はどうして住む地域や民族・種族の違いによって異なる言葉を話すのか。この疑問に対する聖書の答えははっきりしている。それは「人間の罪のため」である。創世記のバベルの塔の物語は、その由来を示すお話だ。

人間が地の面に増え始めどんどん文明を発達させた。「れんが・アスファルト」といったアイテムは人間の文明の象徴である。すると人々は天に届く塔を作ろうと計画を始める。「神のようになろう」とする人々。その傲慢に対して、神さまは人の言葉を乱す、という方法をもって応じられた。以来、人は異なる言葉を話すようになった… これがバベルの塔の物語、言葉が異なる原因譚だ。そこには「人は生まれながらにして罪人」という、ユダヤ教の人間理解が背景としてある。

ところで先ほど、8ヶ国語の言葉で同じ聖書の箇所(ガラテヤ3:26-28)の朗読をしてもらった。前橋教会には今それだけの国・地域出身の方が礼拝に参加しておられる。異なる言葉による朗読を皆さんはどう聞いただろうか?私はとても豊かなものを感じた。決してそれは「罪に対する報い」などではない、むしろそれぞれの形でそこに生きる人間がいるというバラエティ=多様性だと思うのだ。

旧約聖書で「罪によって分かたれた民」が、再びひとつにされる出来事が起こった…「それがペンテコステの出来事だ」というのが新約聖書・キリスト教の立場からの主張だ。聖霊の導きを受けた弟子たちは、行ったことのない言葉でイエス・キリストの福音を語り始めたと記される。

ここで、分かたれた民の分かれた言葉を「再び統一する」という形ではなく、分かれた言葉はそのままで、しかしみんなが同じ福音を聞いたという点に注目したい。神はそのような形で分かたれた民を一つにされるのである。それは違いを根拠にして互いを排除し合う関わりではなく、違いを乗り越えて「共に生きる」そんな歩みへの導きである。

今年は宗教改革から500年の節目である。権威主義に染まった教会の腐敗を批判し、教会のあるべき姿を目指して抵抗(プロテスト)した人々…。そのルターの改革運動のひとつの柱が、それまでのラテン語聖書をドイツ語に翻訳するということであった。「わけのわからない言葉」による礼拝・聖書朗読が、庶民にも親しめるものになっていく。宗教改革は「第2のペンテコステ」と言えるかも知れない。

いま、世界は新たな分断・対立の時代を迎えつつある。そんな中、分かたれた民を一つにされる神の働きを信じて歩みたい。