『 翻って生きよ 』

2017年6月18日(日)
エゼキエル18:25-32

教会の外装が新しくなった。これまでの「みどりの教会」から「みどりの屋根の教会」に生まれ変わった。内装も、天井の照明、マイクのメインスピーカーが交換され、今までより明るく、音も聞こえやすくなった。「衣替え」の季節でもあるが、外側のしつらえが変わることによって、内面も一新された気分となる。

リニューアルされる、生まれ変わる… それは私たちの信仰にとっても大切なテーマである。礼拝につどい、聖書のメッセージやイエスの教え・生涯に触れ、聖霊の導きを受けることによって生きる歩みが改められる…。私たちが礼拝をささげることの意味はまさにその点にあると言えるだろう。

もちろん、毎週の礼拝でそれが起こるかというと、なかなかそういうことはないだろう。また人生を大きく揺さぶる一大変革を遂げる…などということも、そんなに頻繁には起こらない。小さな、ささやかなことでもいい、自分の中に「気付き」が与えられ、ボーンアゲイン(生まれ変わり)の体験が与えられるなら、それでいいのだと思う。教会の外壁塗装は20年ぶりのことであるが、私たちの「ボーンアゲイン」が20年に一度しか起こらないのならば、それは少し淋しいことだ。

私たちは神によってその存在を受け入れられている。「あなたのままでいいよ」と語りかけられている… それを信じられる時、私たちは救いを得る。しかし受容されるばかりではなく、その出会いの中で自己が変革される体験も、私たちの「救い」のためには必要な道のりだと思う。「ここには自分を変革してくれる、一生付き合うに足るものがある」その確信が、私たちを教会の礼拝に向かわせる。

「あなたは本当にそれでいいのか?」と神は問いかける。それは私たちを罪に定め罰を与えようとする「裁きの眼差し」ではない。むしろ私たちが過ちに気付き、悔い改めることによって一歩成長する、その姿を喜んで下さる慈しみに富んだ眼差しだ。

「我々の捕囚の苦しみは、父祖たちの罪に対する神の罰だ」そう考え、絶望的になったり投げやりになっていた捕囚期のユダヤ人たち。そんな彼らにエゼキエルは語る。「父の罪によって子が裁かれることはない。人がその罪を悔い改めるならば、その人は生きる。神は悪人が罪によって死ぬのを喜ばない。その道を離れて生きることを喜ばれる。だからあなたがたは立ち返って生きよ」。

「立ち返って生きよ」の箇所は、かつての口語訳聖書では「翻って生きよ」と訳された。自分の過ちに気付いたならばそれを誠実に認め、軽やかに、爽やかに身を翻らせ新しく生きようとする… そんな歩みの積み重ねが、私たちを本当に豊かな人生へと導いてくれる。


聖霊豊かに 恵みをもたらす
神に背を向けて歩む人にさえ

主なる聖霊と 出会う者はみな
石のこころさえ 脈打ち始める (讃美歌406)

 

自分の、石のような心に、脈打つ息吹を与える「聖霊の導き」を、私たちは受けようとしているだろうか。それは受けようとする者にはそのセンターに必ず感じられるものとなる。しかし受けようとしなければその前を知らない間に通り過ぎてしまうだろう。

そんな「聖霊の導き」を心のうちに受けとめられる信仰を育てよう。そしてその息吹を受けたならば、翻って生きる者となろう。