2017年7月2日(日)
申命記26:1-11,Ⅱコリント8:1-9
今日の聖書の箇所は、いずれも献げものに関する聖書のことばである。ふだん礼拝メッセージで献げものの話をすることは多くはないが、今日はそのテーマに基づいてお話をしたい。
申命記の聖句はイスラエル最後の信仰告白文のひとつと言われる。そこにはエジプトでの奴隷の生活と、その苦しみからの解放と言う神の救いが語られており、ユダヤ人の信仰の原点を表す物語である。この、現存する最古の信仰告白の言葉は、同時にその解放され導き入れられた「約束の地」における最初の大地の実りを神さまに献げる際の祈りの言葉でもあるのだ。
「レビ人、寄留者と共に喜び祝いなさい」と記されている。レビ人は祈りの奉仕のために生産活動に加わらなかった人たち、そして寄留者とはその立場の弱さゆえに生産活動に加われなかった人たちである。そんな人々を「自己責任だから」などと言って除外せずに、それらの人々も祝宴に招きなさい、ということだ。ここにあるのは、神の恵みによって救われて今あることができる者同士、互いの存在を分け隔てなく心から感謝し賛美する人々の心のたたずまいである。
「地の実り」だけでなく、レビ記などには罪の赦しのための犠牲の献げもの(生けにえ)に関する記述もある。遊牧生活をしている人にとって、家族同然である家畜を献げることはある意味で「痛いこと」であった。その「少し痛い思いをもって献げる」ということろに意味があったのではないか。そう受けとめたい。「このぐらい献げておけばいいだろう」とか「こんなにはもったいない」そういう心を抱きがちな私たち。「それでいいのか」と聖書から問われている。
一方の新約の箇所は、貧しい状況にありながら、エルサレム教会を支援する献金活動に加わったマケドニアの教会についての記述である。結果として多くの献金を献げたことが賞賛されたのだろうか?そうではなく、どれだけの思いを込めて献げたか、その姿勢をパウロは評価しているのだ。
ひとりひとりのメンバーが、自分の力以上のことを無理して献げたということなのだろうか?中にはそういう人もいたのかも知れないが、むしろこの「奇跡の教会」に起こったのは、こんな出来事だったのではないか。「誰かがやってくれるだろう、とは思わずに、自分の出来ることを精いっぱいやる」。
「都会」の大規模教会と、「地方」の小規模教会。その財政状況には開きがあるが、一人当たりの献金額を算出すれば、小規模教会の方が多く献げておられるという結果が出る。人任せにせず、自分のできることで教会を支える。そんな心が現れている。
決して無理をする必要はない。無理は続かない。しかし「誰かがやってくれるから、自分はしなくていい」という心が広がってしまったら、教会は生きて働くことができなくなるだろう。
それぞれの人が、それぞれの神への感謝の気持ちを表す心を持って献げる。それを感謝して用いるところに、生きて働く教会の姿がある。