8月31日(日)
聖書: マルコによる福音書10:46-52
2歳以下の子どもがむずかるのをあやすのは難しい。何らかの「満たされなさ」はあるのだが、それが何かを言語化できないからだ。しかし案外、大人である私たちも「自分が何を望んでいるか」をしっかりと意識しているかと言われると、あやしくなるのではないか。
イエスがバルティマイという盲人を癒される出来事である。弟子たちから何度たしなめられても諦めず、イエスに憐れみを願い出るバルティマイ。その声を聴いてイエスは「彼を呼びなさい」と弟子たちに命じられた。
「喜べ、先生がお呼びだ」と告げると彼は「上着を脱ぎ、躍り上がってみもとに来た」と記されている。彼の大きな喜びがあふれるようである。するとイエスは言われた。「何をして欲しいのか?」
かつて脳性マヒで車椅子で生活する友人から「障害者の自己決定権」という言葉を教えられたことがある。身体に障害を持った人がどんな生き方を望んでいるか、それを周囲の人が先回りして決めてしまわないで、その人自身の判断に委ねるということである。
バルティマイは何をして欲しかったのか。「そんなの決まってるだろう。見えるようになることだよ」と私たちは思う。しかしイエスは自己決定権を彼に委ねて、彼の望みを確かめられる。このような関わり方はとても大切だと思う。
翻って、私たちは自分が神に何を願っているか、そのことをしっかり分かっているだろうか?実はあまりよく分かってないことが多いのではないか。もしそうならば、私たちの祈りは次のようなものになるべきなのかも知れない。「神さま、私が今本当に望んでいるものは何なのか、それをお示し下さい」。
そのような祈りをささげることは、私たちが自分の祈りの内容を吟味するということでもある。私たちの祈りや願いがただの自分のわがままではなく、神のみ心にふさわしいもとなるにはどのような方向に向かうべきなのか。聖書はそんな課題に対して、ひとつの「ものさし」を示してくれる。「正義を行ない、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」(ミカ6章)。それがその道だ。
ナチスドイツに抵抗したことによって逮捕され処刑された抵抗の神学者・ボンヘッファーは、獄中での手紙にこう記した。「今日、私たちがクリスチャンであるということは、次の2つのあり方の中にのみ成り立つでしょう。即ち、祈ることと、人々の間で正義を行なうことです。」
祈ることが信仰の課題であることは言うまでもないが、それだけではまだ足りない。祈ると共に正義を求めて生きることが大切なのだ。なぜならイエスこそ祈りつつ歩み、そして同時に正義を求めて生きられた人だからである。