『 ひとりひとりしあわせ、みんなしあわせ 』

2017年8月6日(日) 平和主日
創世記1:26-31,ローマ8:19-25

今日は平和主日、平和のことを共に考え祈る日である。平和とは何だろう?こどもから「平和って何?」と聞かれたから、どう答えればいいのだろう?

「平和とは戦争のない状態」、多くの人がそう答えるであろう。確かにそれもひとつの定義である。しかし、戦争がない状態… それだけで平和と言えるだろうか?「パックスロマーナ」という言葉がある。ローマ帝国の時代、支配する国々を強大な武力で抑え込んでいる平穏な状態である。「全人類の中で彼らローマ人だけが、世界の財貨を求めるのと同じ熱情をもって、世界の窮乏を欲している。彼らは、破壊し、殺戮し、掠奪することを“支配”と呼び、人の住まぬ荒涼たる世界を作りあげた時、それを”平和”と名づける。」(カレドニア人の族長・カルグクスの言葉)これが平和だろうか?それは偽りの平和ではないだろうか。

「日本のような平和な国に生まれてよかった」と感想を述べる人もいる。確かに日本は戦後72年、一度たりとも戦争をしていない。憲法第9条、平和憲法が定められた成果である。しかしそのことをもって「日本は平和な国」と本当に言えるだろうか?福島の原発事故の後、目に見えない放射能から逃れるために今も避難している人がいる。沖縄・辺野古では新しいアメリカ軍の基地が多くの県民の反対をしり目に強引に推し進められている。そのような現状を知って、それでも「平和な国に生まれてよかった」と言えるだろうか。

「平和」の「平」という漢字は、すべてがまんべんなく行き渡った偏りのない状態を表し、「和」とは、すべての口にお米が入っている満たされた状態を表すという。「みんなにこにこ、ごはんもぐもぐ」それが「平和」だと漢字が教えてくれる。戦争だけでなく、差別、貧困、暴力、飢餓、それにいじめなどが「ない状態」。それが本当の平和ではないだろうか。

連続ドラマ『ひよっこ』ヒロイン峰子の叔父・ムネオは「オレはどんなときでも笑って生きてやる。そう決めたんだ」と峰子に語る。彼は苛烈を究めたインパール作戦の生き残りであり、戦場で悲惨な経験をいくつも体験している。そんな中で、ある日暗闇で出くわした敵兵が自分を殺さずに笑って去っていったが、自分は笑えなかったという体験をした。戦後そのことを思い出す中から「オレはどんなときでも笑って生きてやる。」そのように決意したと告白する。「どんなときも笑って生きる」それがムネオにとっての反戦であり、平和に向けての闘いなのだ。

聖書で「平和」を現わす言葉、「シャローム」(ヘブル語・旧約)も「エイレネー」(ギリシャ語・新約)も、単に戦いがない状態を現わす単語ではない。「神が造られたものを見られた。それは極めてよかった」(創1:31)と言われた世界、その状態を表す言葉なのである。その「極めて良かった」世界の管理を、神は人間に託された。「神のシャローム」を損なうことなく保つこと。それが「平和を作り出す」ということなのである。

「力には力を!それでないと平和は保てない」とうそぶく人がいる。しかし私たちは、「剣を打ちかえて鋤とし、槍を打ちかえて鎌とする」(イザヤ2:4)即ち戦いの道具を農機具に作り直すこと、恐い顔で睨み拳を固める人の手をにっこり笑って握手を求め開かせること、「ひとりひとりしあわせ、みんなしあわせ」そんな世界を求めること、それが「平和を作り出す道」だということだと信じよう。

 

かみさまがせかいを つくったとき
ひとつひとつ いろいろ みんなよかった

わたしたちが 願ってる 世の中は
ひとりひとり しあわせ みんな しあわせ

わたしたちの 思いを 寄せ集め
小さないのち 大事に 共に生きよう

(「かみさまがせかいを」これもさんびか1706)