2017年8月13日(日)
ヨナ書3:1-5、使徒言行録9:26-31
高校野球の夏である。感動の表舞台とは違って、舞台裏には悲喜交々の現実がある。地方大会から本大会に向けて、規定によってベンチ入りメンバーの数が20人から18人に減らされる。2名の落選の選手にそのことを告げる役割。さぞかし気の重い役割だろうと想像する。
この世の中には、誰かがやらねばらないが、誰もが進んで引き受けたいとは思わない「気の重い役割」というものがある。今日の聖書はそんな役割を向けられた時にどうするか、そのことを考えさせるものである。
預言者ヨナは、アッシリアの都・ニネベの街に神の言葉を告げることを命じられる。「罪に満ちたニネベに神の裁きが降る」と。ヨナはこの召命を拒み、逃亡の旅に出る。舟に乗り、嵐に遭遇し、その嵐が神の召命から逃げた自分が原因であると知られると、海の中に放り込まれる。しかしヨナは魚に飲み込まれて命を救われた。そしてその魚の腹の中で悔い改めて、神の命に従う決意をする。
ニネベの街に滅びを告げるという役割。それは街の人々の反感を買い、弾圧を受けるかも知れない行為である。ヨナは一旦はその「気の重い役割」から逃げた。しかしその逃げたヨナを、神は助け、やがてその役を担うことが出来る者となる日が来ることを待ち続けられたのである。
一方の新約は、キリスト教最大の宣教者・パウロが使徒たちの宣教の働きに加わろうとする場面である。パウロ(この時点ではまだサウロと名乗っていた)は、元はユダヤ教のファリサイ派で、イエス・キリストを信じる人々を弾圧していた人物であった。ステファノの殉教の場面に至っては、その殺害に賛同していたと記される。直接の下手人ではなかったが、黒幕のひとりである。
そんなパウロが、主観的な幻想のような形ではあるがイエス・キリストと出会い、「目からウロコ」が落ちる体験をして、イエスを信じる者と変えられる。そして宣教の現場へと出かけて行くのである。
使徒たちの許に「私も仲間に加えて下さい。」と申し出るパウロ。「霊に燃えて、意気揚々と…」そんな姿を想像するだろうか?私はむしろ、さぞかし気が重かっただろうと想像する。「どのツラさげて来れるんだ!」と言われかねない状況である。そんな中を気の重くなる思いをかかえて、それでも行かずにはおられないと覚悟を決めて出かけるパウロ。そんな彼を、神は用いられ、大切な役割を託されたのだ。
神はこの世に神の国をもたらすのに、超越的な力を用いるのではなく、弱く小さな人間を用いてそれを実現しようとされた。逃げ出す者、反発する者、そんな「気の重さをかかえた人」が、やがてその働きを担う者とされていったことを聖書は伝えているのである。