2017年8月20日(日)
エレミヤ20:7-13, 使徒言行録20:17-35
クリスチャン以外の方から「キリスト教の教えの中で、一番大切だと思われることはどんなことですか?」という質問を受けることがある。皆さんならどう答えられるだろうか。
今日の旧約の箇所ではエレミヤが、「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい」と決意したにもかかわらず、心の中・骨の中で主の言葉が燃えさかり、外に出ていこうとするのを止めることができない…そんな心情が記されていた。「主よあなたの勝ちです…私の負けです」そんな思いと共に語らざるを得ない主のみ言葉。それは私たちにとってどんなメッセージなのだろう。
新約の箇所は、パウロが第3回目の伝道旅行を終え、その総括のような言葉をエフェソ教会の長老たちに語る場面だ。これから自分はエルサレムに戻り、その後ローマに行く。それはとてつもない旅になるであろう。もうあなたがたに再び会うことはないかも知れない… そんな局面において、パウロは自分が伝えようとしたイエス・キリストの福音、その真髄を「涙を流しながら」語ったと記されている。そこでパウロが語った言葉は「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉であった。かつてイエスが語られたその言葉を思い出せ、と。
ところが福音書の隅々を探しても、イエスがそのように語られたという箇所は見つからない。これはいわば、パウロが代弁する形で引用されている言葉である。にもかかわらず私たちは思う。これはいかにもイエスが言われそうなこと、きっとこのような言葉を語られたに違いない、それも一度や二度ではなく何度何度も…と。
「富める青年との対話」「愚かな金持ちのたとえ」「五つのパンと二匹の魚」そんなエピソードが教えるのは、とかく受けること・手に入れることを第一に求めてしまう人間の本性を克服し、与え、手放し、分かち合うところに本当の祝福された姿があるということだ。
そしてイエスは、多くの人々のために自分の命をささげられた。そのようなイエスの「受けるより与えることの幸い」という生涯に出会って、自己中心的な自分が砕かれ、新しい歩みへと導かれる ― そこに人間の救いがあると信じるのが私たちの信仰ではないか。
パレスチナにある二つの湖。ガリラヤ湖は支流から水が流れ込むが、ヨルダン川を通じて自らも水を与えていく。豊かな水の循環が起こり、多くの魚の住む豊かな湖となる。もう一つの死海は、周囲から水を受けるだけで、そこから流れ出る川がない。与えることをしない湖は、塩分が高まり生き物の住めない「死の海」となる。私たちの人生もこれと同じではないだろうか。