『 豊かに実る日を信じて 』

2017年9月3日(日)
ハバクク3:17-19、マタイ13:24-30

作物の成長には時間がかかる。人は土を耕し種をまき、時に肥料を与えるが、人間の力以外のもの(太陽の光、雨の水)が欠かせない。やるべきことをやってあとは天にまかせる。「待つこと」、それが育てることなのだ。

一方、経済の世界では成果が出るまでの時間が著しく縮められている現状がある。分単位、秒単位で情報をやりとりし、利益を競い合う世界。そのようなものが蔓延する中で、現代人は「待てなくなって」いる。インターネットにつながるまでの5秒間が「遅い!」とイライラしている。

しかし大切なことには時間がかかる。人の成長(教育)もそのひとつだ。短期的な状況だけですべてを判断してしまわずに、時間の軸を長く取ってその行く末を見守る… そんな眼差しの下でこそ、人はゆっくりと成長し成熟するのではないか。今日は与えられた聖句から「大切なことには時間がかかる」という真理を学びたい。

ハバククが活動したのはバビロン捕囚期と言われる。「嘆きの預言者」エレミヤと同時期だ。目の前で起こっている捕囚の苦しみ。その中で助けを求めても神は応えて下さらない… そんな絶望的な言葉をもってこの短い預言書は始まる。

ハバククは苦しみの中での神への問いを発するのであるが、そこで彼は「なぜ、どうして苦しまねばならないのか」という原因や理由を問う意味では語らない。「いつまで苦しまねばならないのか」と、時間の軸において問うている。そしてそれに対する神の言葉として、「たとえ遅くなっても待っておれ。それ(救いの時)は必ず来る」という言葉を示し、「ぶどうやいちじくに実がなくても、私は主によって喜ぶ」という希望を語るのである。

新約は不思議なたとえ話である。麦畑に毒麦が混入してしまった。それを「抜きましょうか?」と尋ねる使用人に対し、主人は「刈り入れまで待て」と言われた… そんな話である。

ルカによく似た「実をつけないいちじくの木」のたとえがある。「実をつけない木など切り倒せ」と叫ぶ主人に対し、「あと一年待ってください。世話をしてみます。」ととりなす園丁の話で。「いま」の時点ですべてを判断し決めつけてしまわずに、もう少し待ってみよう、時間をかけて向き合ってみよう…そんなメッセージが浮かび上がる。

TVドラマ「三年B組金八先生」の中で、「腐ったみかん論」を振りかざして問題行動を起こした生徒を切り捨てようとする教師たちに、金八先生が「子どもたちはみかんじゃない!人間なんだ!」と叫ぶシーンがあった。毒麦を抜くなと言う主人や、いちじくを切るなと言う園丁の姿と重なり合う。

今実をつけていない、今成果を出していない、今あやまちを犯している、うまくいっていない… そうした短期的な視点で全てを判断し切り捨て、絶望するのでなく、いつか豊かに実る日を信じて待つ、ということ。時間をかけるということ。それはまさに信仰という営みにおいてこそ担いうる道なのである。「神に従う人は信仰によって生きる」(ハバクク3:4、ローマ1:17、ガラテヤ3:11)