2017年9月17日(日)
エゼキエル37:15-28,Ⅰコリント1:10-17
今年は宗教改革から500周年の年にあたる。この年を記念して、内外で様々な記念集会が行なわれている。改革ののろしが上がったドイツのヴィッテンベルグでは、万博のような賑わいを見せているという。そのような状況を横目で見ながら、私自身はどうも盛り上がらない思いを抱いている。それは、宗教改革とは世界最大の「分派活動」、すなわち「仲間割れ」ではないかと思っているからだ。
結果的に分裂した中で、「相手が悪い。自分たちは間違っていない!」と100%確信できる人は祝うことができるのかも知れない。しかし私にはどうもそのようには思えないところがあり、だからためらいを抱いてしまうのだと思う。
人間社会には様々な「分派活動」がある。キリスト教だけでなく、イスラム教も仏教もそれぞれの宗派に分かれている。戦争もまたそんな現実のひとつとも言える。それを「人間の本性だから仕方ないじゃないか」と居直るのでなく、どこかで「残念なことだ」と感じていくことは大切なことではないか。そしてその現実の中で、それでも共存の道、「共に生きる」営みを模索していきたいと思うのだ。
エゼキエルはバビロン捕囚の絶望の中で、民族復興の幻を語る。それが有名な「枯れた骨の復活」の預言だ。それに続いてエゼキエルは、「その民族の復活は、分かれた民が一つになるという形で起こる」と預言する。歴史的経緯の中で相争っていた北王国イスラエルと南王国ユダ。両者の対立・反目の現実が乗り越えられ、和解へと導かれる、そんな終末論的希望を語るのである。
新約の箇所は、コリント教会の大きな問題であった分派活動を諫めるパウロの手紙の一節だ。複数の指導者によって導かれていたコリント教会には、それぞれの指導者のシンパによる分派活動が起こってしまった。パウロ派、アポロ派、ケファ(ペトロ)派、キリスト派。そんな現実の中で、パウロは自分に近い立場の人の言い分を優先的に聞くことなく、大所に立って進言する。
あなたがたのために十字架にかかったのは、パウロではなく、キリストだ。あなたがたはパウロやアポロの名においてではなく、キリストの名において洗礼を受けたのだ。そのキリストにおいて一つになりなさい、とパウロは語る。
では、その「キリストにおいて一つになる」とは、具体的にはどういうことか?もはやみんなの間に意見の相違なく、一枚岩のようになって結束して歩むということか?全然違う。互いの違いがなくなるのではなく、違う部分を認め合い生かし合って、ひとつのからだになるということだ(コリント12章)。
宗教改革から500年。今もなお、教会は分かれたままで一つにはなれない。しかしそれぞれの違いを認め合って、互いを尊重し信頼して歩むことはきっとできるはずだ。