2017年10月1日(日)
出エジプト20:1-7,マタイ19:16-22
正しく生きること、生きようとすること…それは社会生活を営む上で大切なことである。社会の構成員みんながルールや決まり事を守り正しく振る舞うことで、その社会は滞ることなく回っていく。車の運転がそうだ。皆が法規に従って正しく振る舞うことを前提としているからこそ、私たちは大きな心配をすることなく公道で車を運転できる。
しかしその「正しさ」は、時代や国・地域が違えば、変わるものでもある。日本や英国で正しい左側通行も、多くの国では間違った行為になる。戦前の日本では、天皇を神と信じ、敵国米英の兵士を撃ち殺すことは「正しいこと」だった。女性に参政権のなかった時代には、「女・こどもは黙っておれ!」と怒鳴る親父の振る舞いを、「正しいこと」と認める人がいた。
「正しさ」は移り変わる。しかし人と人の関係で真実な関わりを保とうとすることは、どこの国でも、いつの時代においても大切な人の姿を映し出すと言えよう。
人は神の前でいかに「正しく」、「真実に」生きられるか。旧約の時代にそれを示すのが十戒や律法であった。十戒の条文には「○○してはいけない」という禁止命令が多く含まれる。しかしそれはもともと「禁止」というよりは、神との真実な関係の中で自ずと生じる行為を表したという。“should not”(してはならない)ではなく“could not”(することができない)ということだ。
エジプトの奴隷の状態から救い出して下さった神。その方以外の存在を神とすることができない。その神の前では「殺せない」「盗めない」。そういう形で自らを律するのが十戒・律法と人間(ユダヤ人)との本来のあり方だというのだ。けれども時代が下がるに従って、形式的に守っているか否かで「正しい・間違い」を決めつける考えが生まれてくる。イエスの時代の律法主義者である。
イエスの許を訪ねた青年は、「永遠の命を得るにはどんな善いことをすればよいか」と尋ねる。イエスの答えはそっけない。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、隣人を愛せ、それらの掟を守りなさい」。十戒(律法)に従って、「正しく」生きよということである。青年は答える。「そんなことは昔からやってきました」。ここには、そのような型通りの「正しさ」には満足しようとしない、ひたむきな思いが表されているように思う。
するとイエスは言われた。「持ち物を売り払い、貧しい人に施し、私に従いなさい」。そのように行動すればその見返りとして永遠の命が与えられる、ということか?そうではないと思う。掟を守る型通りの正しさを求める生き方から、隣人への具体的な関わりの中に生きる、そんな生き方への転換を示されたのだと思う。「正しく生きることよりも、あったかく生きる者となりなさい」と。
青年は悲しみながら立ち去った。「多くの財産を持っていたから」とある。残念な結末だ。しかしこの物語には続編があると信じたい。その時即座には応えられなかったけれども、彼の心の中にこのイエスの言葉が残り、その後の人生の中で隣人への温かな関わりが生まれ、それを喜ぶ心が生まれたならば、この出会いには意味があったと言える。そして、その喜びの中にこそ彼が求めた永遠の命、即ち本当の救いがある。
この物語には続編がある。その続編を描くのは、私たちひとりひとりなのだ。