2017年10月15日(日)
ヨシュア6:1-5,ヘブライ11:17-22,29-31
ヨシュア記に記された「エリコの闘い」は大変不思議な、荒唐無稽な物語である。ヨシュアに率いられたイスラエルの人々は、エリコの強固な城壁を、「鬨(とき)の声」を挙げることによって崩したというのだ。神の導きを信じて従えば、思いもよらない奇跡が起こることを示すのだろうか。
しかし歴史の中では、何度もこのような出来事が実現した。ベルリンの壁を崩したのも、アメリカ社会で白人と黒人を分断する「隔ての中垣」崩したのも、自由と解放を求める人間の声であった。信じて歩む人の声は、しばしば壁を打ち壊し、人々を新しい世界へと導いてくれる。
今また人と人を分断する新たな形の壁が築かれつつある。パレスチナで、アメリカ・メキシコ国境で、難民流入を憂える国々で、そして北東アジアの現実の中で。けれどもそんな現実の中を「信じて従えば、神の導きによって奇跡が起こる」という信仰によって導かれ、人の声の力で壁を乗り越えていきたいと思う。
創世記・アブラハムの物語も、神に信じて従う人の歩みを示している。その中でも、私たちにとって最も難解なのが「イサク奉献の物語」である。筋立てが難しいわけではない。難しいのは、大事なひとり息子を「いけにえの犠牲として献げよ」、つまり「殺せ」と命じる神の命令である。「そんなことを命じる神って何!?」「すなおに従うアブラハムもどうかしてる!」私たちはそのように思ってしまう。
ヘブライ書ではこの難題について、「アブラハムは神が死人をよみがえらせる力を持つ方であることを知っていた。だからイサクを殺そうとできたのだ」と解釈する。新約時代に生まれたイエス・キリストの復活信仰を、旧約時代の創世記の物語に逆投影した、かなり苦しい解釈と思える。しかし、このような無理筋の解釈が生まれるということ自体に、著者にとってもこの物語が、本音のところでは受けとめるのが難しいものであったことがうかがえるように思う。
そう、難しいのである。「ひとり息子を殺せ」と命じられて、素直に従える人などいないのである。しかしだからと言って「もう信じるのはやめます」「従うのはおしまいです」となってしまったら、そこで信仰の歩みは終わってしまう。この物語は「信じて従うとはどういうことなのか」ということを問い続ける異色の物語なのである。
アブラハムは悩みつつ、うろたえつつ、でも信じる道に従おうとした…私はそんな姿を想像する。それでいいのではないかと思う。最後はもう泣きながら、叫びながらわが子に向かって剣を振りかざそうとするアブラハム。そこに「その子に手を下してはならない」という主の言葉が語りかけられる。「あなたの信じる気持ちはよく分かった」と。
信仰とは「信じればいいことがある」という道のりばかりではない。誰もが「それは大事だね。大切なことだね。」と迷わず進んでいける道ばかりとは限らない。時に悩み、拒絶したい気持ちになる…でもそこには何かがあると信じて踏みとどまること、そしてそこから信じる方へ向けて一歩を踏み出すこと…そんな信仰の歩みもあるのではないだろうか。
誤解を恐れずに言えば、「信じる」という行為には、あらかじめ若干の疑いが入っているのではないか、と思う。入っていていいのではないか、と思うのである。「100%信じる!」だと、それこそ「盲信・盲従」になってしまう。「信じます、不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24、口語訳聖書)この言葉の中に、私たちの信仰の現実の姿がある。
信じ切れないいくつかのことがあってもいい。それでもなお、信じるほうに賭ける、踏みとどまる…。そんな「信じて従う主の民」の姿を、聖書は私たちに示してくれる。