2017年10月22日(日)
マタイによる福音書25:1-13
山登りに出かける時、万が一のために余分な衣料や雨具、水などを持って行くようにしている。「今日は晴れてるから大丈夫…」という気の緩みが油断を生み出してしまう。しかし山の天候は変わりやすい。準備を怠ると後で大きな後悔となって返ってくることがある。
私たちの人生も同じではないか。人生にもいつ突然の事故や災害、病気が訪れるか分からない。それにいつも備えていられるかというと、なかなかできないのが実情だ。大災害の直後はみんなの意識も高まり、万が一に備える思いヘと向かう。しかし平穏な日常が続くと私たちの意識は弛緩し、「ま、大丈夫さ…」という気持ちになってしまう。
ある意味、そのように「緩む」時期があるからこそ、私たちは主観的には幸せに生きることができるのかも知れない。大災害の訪れに毎日怯えて生きていたのでは生きた心地がしない。私たちは怠惰であり、呑気な存在である。だからこそ毎日を何とか楽しく生きていけるのだ。
そんな私たちにとって、今日のイエスのたとえはいろいろと考えさせられるものだ。10人のおとめのうち、5人は油のストックを持っていたので花婿を迎えられたが、残りの5人は持っていなかったので花婿を迎えられなかった。これは「世の終わりがいつ来てもいいように備えをしておきなさい」という教えである。
「終末がいつ来てもいいように備えをする」とはどんな振る舞いだろうか。常に目を覚まして、眠らずに、じっとその到来を待ち続けるということだろうか?そうではない。眠らないでいることなど誰にもできない。イエスのたとえでも、10人のおとめたちは花婿の到着が遅れる中、みな眠ってしまった、と語られる。私たちは「つい眠ってしまう」弱い存在である。大切なのは、その自分の弱さを知ること、そしてだからこそ「油を断やさない」即ち「油断しない」ということだ。
愚かな5人は油断した。なぜだろうか?それは「自分たちは大丈夫だ」と思い込んだからではないか。山登りで大切な装備を忘れてしまうのは、体力・経験・知識に自信があり、「まぁ大丈夫だろう」と思う時である。その主観的な強さが、つい眠り込んでしまう生身の人間の現実の中では愚かさになってしまうのだ。
ではその「油」とは何だろうか?私たちの信仰にとって、それは「祈り」であり「聖書を読むこと」であり「賛美をすること」、そして礼拝をささげることなのだろう。「私の信仰は自分一人でも大丈夫!」そのような自己意識こそが、油の準備を怠らせる最大の要因だ。
ところでひとつ気になることがある。油を持たなかったおとめたちが、油を持っていたおとめたちに「少し分けてもらえないか」と頼んだところ、断られた、というくだりである。「何だよ、分けてあげてもいいじゃないか」と思ってしまう。そんな視点で見れば、この5人はとても薄情な人間にも思える。しかしイエスの思いは別にあるのではないか。
即ち、私たちの人生には人と分かち合えるものと、分かち合えないものがある、ということだ。ひとりひとりが神の前で人生の問われる時、誰かがそれを代わってあげたり、足りないものを補ってあげたりするわけにはいかない。自分が生きてきた人生の意味は、最終的にはその人自身が引き受けていかなければならないのである。
イエスは「賢いおとめ」のような生き方を示される。それは立派に生きることではない。完璧に生きることでもない。自分の弱さを知ること、そしてだからこそ油を断やさない生き方を求めることである。