『 ひとつの充実として 』

2017年11月5日(日) 召天者記念礼拝
コヘレト3:18-22、マルコ13:8-13

人間は、自分がやがて死を迎える存在であることを知っている。だから人間だけが葬儀を営む。葬儀の始まりは人類の歴史の始まりでもある。そして葬儀とは極めて宗教的な営みである。だから人類の始まりは宗教の始まりでもあると言える。

だれも死んだ後のことを見た人はいない。自分の存在がなくなることへの不安が、人を宗教へと向かわせてきのであろう。人は死んだらどうなるのか?その問いに聖書はどう答えてくれるのだろうか。

旧約聖書の古い時代の文献は、死後の世界への必要以上の関心が見られない。「アブラハムは長寿を全うし、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」そのような記述が淡々と繰り返される。「先祖の列」つまり今ここに生きている自分につながる命の輪、そのひとコマとされることで満足していた心情がうかがえる。

しかし後期ユダヤ教の時代になると、終末論、復活思想などが見られるようになる(ダニエル書、エゼキエル書、マラキ書など)。ユダヤ教への迫害や弾圧により心ならずも死を迎えなければならなかった人はどうなるのか?その問いに答える形で終末信仰が語られるようになり、それが新約聖書にも影響を与えている。

けれども旧約聖書には異なる記述もある。そのひとつがコヘレトの言葉である。「すべては塵からなった。すべては塵に返る。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。」そのように醒めたように語り、「人間の幸福は、自分の業によって楽しみを得ること」、すなわち今生きている日々を楽しく過ごすことだ、と語る。これはこれでひとつの人生観を表している。

「7人の夫と次々に死に別れた妻は、復活の時には誰の妻になるのか?」このようなサドカイ派の人々のいじわるな質問に、イエスは「あなたがたは大変な思い違いをしている」と言われる。「復活の時には嫁いだりめとったりはしない。天使のようになるのだ。」と。どういう意味なのだろうか。

それは、自分の死後のことを、今の自分の尺度や考え方でとらえることはできない、ということではないか。そしてイエスは肝心なことを言われる。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。」私たちが神との関わりを感じることができるのは、とりあえず今生きている時だけだ。だから死んだ後のことを先取りするのではなく、今この時を大切に生きていきなさい、ということだ。

では死んだ後はどうなるのか?それは本当のところは私たちには分からない。だからこそそのことは、神さまにお任せするしかないのではないか。私たちにできることは、死後のことを必要以上に恐れるのではなく、その日に至る自分の歩みを大切に過ごし、そして死をひとつの充実としてとらえられる人生を歩むこと以外にないのだと思う。

評論家の立花隆氏が、アマゾンの原始生活に近い暮らしをしているインディオの村を訪ねたルポがある。ある時立花氏は親しくなった村長に質問した。「人は何のために生きていると思いますか?」彼はしばらく考えて、こう答えたという。「第1に、人は仲間と共に向上するために生きている。そして第2に、人は死ぬために生きているのだ。」そこには仲間を信頼し、大地を信頼する人生がある。そしてそのような人生においては、死は虚無ではなくひとつの充実としてとらえられている…立花氏はそう記しておられた。

ネイティブ・アメリカンの間で語り継がれている短い言葉がある。「あなたが生まれた日、あなたは泣いていたけど、みんなは笑っていたでしょう?だからあなたが死ぬ時は、みんなが泣いていてもあなたは笑って旅立てる、そんな人生を歩みなさい。」この言葉を元に作った歌がある。それを今日のメッセージの最後にお贈りしたい。

 

♪『あの日から、その日まで』

わたしが泣いている 全力で泣いている
そのまわりで みんなみんな 笑ってる
わたしの生まれた日

みんなが泣いている 悲しみで泣いている
その真ん中で わたしだけ 笑いたい
わたしの旅立つ日

たくさんのほほえみと たくさんのなみだで
あの日から その日まで 満たされたい
わたしのいのちの日々