2017年12月17日(日)
マタイによる福音書2:9-11
東の国からきた博士たちは、幼な子イエスさまに出会って黄金・乳香・没薬の宝ものを贈り物として献げました。最初のクリスマスプレゼント、それはもらうものではなく、ささげるものだったのです。
わたしたちはそんな宝物を持っていません。では私たちは何をささげることができるのでしょう?それは私たちのこころです。私たちの生き方です。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」でも、どんなこころを、どんな生き方を献げればいいのでしょう?ヒントを与えてくれる物語をお話します。
それはもうひとりの博士、アルタバンの物語です。三人の博士との待ち合わせに行く途中、困っていた旅人を助けたために遅れてしまい、三人は出発した後でした。アルタバンは旅に出るために、救い主にお献げするつもりだった3つの宝石のうち一つを売ってらくだを手に入れました。
ベツレヘムに着いて尋ねてみると、三人はイエスさまと出会い、また帰ってしまったということでした。イエスさまもおられません。ヘロデの恐ろしい命令を避けて逃亡されたのです。
その時、ヘロデの兵士がやってきて、目の前のお母さんから男の子の赤ちゃんを奪おうとしました。アルタバンは宝石の二つ目を兵士に差し出し、赤ちゃんを助けました。
それから30年以上経ち、アルタバンはイエスさまをずっと探し続け、もうおじいさんになってしまいました。エルサレムに行ってみると、イエスさまが十字架に架けられるという噂を聞きました。「行ってみよう、ひと目でもお会いできるかもしれない」しかしその時目の前にひとりの少女が走り寄りました。「助けて下さい。私はもうすぐ売られてしまうのです。」
アルタバンは悩みました。あとひとつ宝石がある。これを差し出せば少女は助けられる。しかしこれはイエスさまに献げようと思っていたものだ… 悩んだ挙句、アルタバンは宝石を少女を助けるために使ってしまいました。
絶望の思いで地面に倒れたアルタバン。しかしその時イエスさまの声が聞こえました。「あなたの献げものは、全部私がもらったよ。これらの小さい者のひとりにしたのは、私にしてくれたことなのですよ。」
私たちもアルタバンのような心を持って生きていくこと、それがイエスさまへの献げものとなるのです。
(CS合同礼拝)