『 闇の中に輝く光 』

2017年12月24日(日) クリスマス礼拝
ヨハネによる福音書1:1-5

「宗教改革500年」という触れ込みで始まった2017年、その節目の年もあと少しで終わろうとしている。宗教改革にはいくつものスローガンがある。「信仰義認」「万人祭司」… その中で大切なひとつの柱が「聖書のみ」である。当時の教会が大切に受け継いでいたもののうち、聖書的根拠のないものは次々に否定されていった。

ふと気になることがある。聖書的根拠がないと否定されるのであれば、「あれはどうなってしまうのだろう?」と思わされる行事がある。教会にとって大切な行事のひとつである。

それはクリスマスだ。聖書のどこにも「クリスマスは12月25日です」とは記されていない。イースターやペンテコステがユダヤ教の暦の中ではっきりと日時を確定できるのに対して、クリスマスの日時は不確定なのである。

古くからローマ帝国で祝われていた「冬至の祭り」を換骨奪胎してクリスマスを祝うようになったというのが定説だ。冬至、すなわち「太陽の誕生日」を、「義の太陽」(マラキ3:20)として生まれた救い主の誕生日としていった、ということ。つまり元はローマ人=異邦人の、異教のお祭りであり、そこには聖書的根拠はひとつもない。

しかし調べてみたがクリスマスの日程に対する改革者たちの否定的な発言や記述は見つからなかった。聖書中心主義の改革者たちと言えども、定着していた12月のクリスマスを否定することはなかったということか。カトリックでもプロテスタントでも、現在では多くの教会で12月にクリスマスが祝われている。

個人的には「12月にクリスマスがあってよかった」と思う。北半球では冬、昼の光が最も暗くなる時期、気分が重く沈む季節に、最も大きな喜びを祝うことができるからだ。闇の中に光が与えられる… それがクリスマスの大きな喜びなのだと思う。

「あきらめるな!がれきを押し続けろ!光が見えるだろう?その光に向かって這って行け!」この言葉は、今年のノーベル平和賞授賞式で、ICAN(核兵器廃絶キャンペーン)のサーロー節子さんが語ったスピーチの一節だ。

13歳の時被爆した節子さん、がれきの中に埋もれあきらめそうになった時、近くの人のその声に励まされ這い出して一命を取り留めた。その体験を元に、後半生を核廃絶運動に献げ、その成果は今年7月、核兵器禁止条約という形で実を結んだ。核戦争という大きな「闇」に対して、光を掲げて向き合うその毅然とした姿に、世界の人が希望を与えられた。

私たちの生きる現実にも、様々な闇がある。戦争、差別、貧困、災害、病気、人々の対立…。それらの出来事は、日々短くなる冬の光のように私たちの心を凍えさせる。しかしその暗闇の中に希望へと導く光をもたらすために、救い主は来て下さった。そのことを信じよう。