『 出会いによって変えられる 』

2017年12月31日(日)
マタイ2:1-12

人と人との出会いには、時にその人の人生を変える力が宿っている。生きる道のりに予定変更を迫り、軌道修正を促される、そんな出会いというものが人生にはある。

その予定変更の歩みは、それまで生きてきたその人の価値観からすれば、むしろ損だと思えることもあるかもしれない。もし私たちが、自己利益の追求だけを願って生きてゆきたいならば、なるべく出会いなど持たない方がいいのかも知れない。

しかし私たちのそんな「自己中心の虫」を乗り越えるようにして、時に人は出会いによって変えられ、導かれて、自分でも思ってもみない世界へと足を踏み出してしまう。真の出会いにはそのように人を作り変える力がある。

今日の聖書の箇所は、東の国から不思議な星に導かれて、幼な子イエスのところにたどり着いた占星術の学者たちの物語である。「学者」とあるが、実際の彼らはペルシャ地方の「マギ」と呼ばれる拝火教の司祭だったのではないかと考えられている。「マギ」は「マジック(魔術)」の語源ともされ、少し怪しげな呪術師・魔術師のような人々をイメージする。

彼らは新しい王の出現を告げる星を見つけると、はるばる旅をしてエルサレムに出かけた。「新しい王なら都の王宮に生まれるのだろう」そのような「常識的判断」が彼らをヘロデの元へ向かわせた。すると王やエルサレムの人々はマギたちの言葉を聞いて「不安を感じた」。自分たちの秩序を覆す人物の出現を予感したからである。

王は部下に調べさせ、その場所がベツレヘムであることをつきとめると、マギたちにそれを知らせ「場所が分かったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言った。その腹には別の思いがあったことは言うまでもない。

マギたちは言われた通り出かけ、幼な子イエスに出会う。そして黄金・乳香・没薬の宝物を献げるのである。三つの宝物にはキリストの人生を象徴する意味があるとも言われるが、今日は彼らが大切にしていた宝物を「手放した」という点に注目したい。

それは旅を続ける彼らには大事な財産だったかも知れない。彼らの司る呪術・魔術にとって必要なアイテムだったかも知れない。しかし彼らはそれを献げる=手放すのである。「もうこれらのものはいらない」と。このお方と出会えたから、この目で神の救いを見ることができたから、もう宝物はいらない、と。

彼らは夢でヘロデの元へ帰るなとのお告げを受けたので、「別の道を通って帰っていった」。それはイエスとの出会いによって歩む道・生き方を変えられた人の姿を象徴しているのではないか。

イエス・キリストと出会うことによって自分が変えられる… 私たちが礼拝をささげることの意味は、まさにそこにあると言えよう。神は今日も私たちに出会いを備えていて下さる。自分勝手に生きる私たちに、路線変更・軌道修正を迫るために。