『 信じる気持ちがあるならば 』

2018年1月7日(日)
ヨハネによる福音書4:43-54

イエス・キリストによる「いやし」の物語が福音書にはいくつも記される。イエスの宣教は、教えや言葉を語ることばかりでなく、「いやし」の業も大切な柱であった。ある意味、イエスの元に続々と人が集まったのは、「いやし」を求めてのことなのかも知れない。

イエスには人の病気を治療する「超能力」のようなものがあったのだろうか?医学の水準が現代とは比較にならない時代の話なので、確定的なことは言えない。ただ、ひとつ言えるのは、人々の「信じる気持ち」とイエスの「いやし」とは密接なつながりがあったということだ。

「痛いの痛いの飛んでいけー」という母の声や、「これはよく効く薬ですよ」と手渡される小麦粉によって、本当に痛みが消えることがある。人間にはそのような自己治癒能力があり、信じる気持ちがそれを引き出すのである。

逆に、信じる気持ちがないところでは、奇跡も起こらない。イエス自身も言っておられる。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」(ヨハネ4:44)。「なんだあいつは、偉そうに。大工の息子が!」そんなまなざしの下では、さすがのイエスでも「いやし」の奇跡を起こせなかったのだろう。

しかしその故郷・ガリラヤにおいて、今日の箇所に出てくる王の役人は違った。熱病にうなされ死にかけている自分の息子を何とかして癒して欲しいとイエスに願い出るのである。「この人なら何とかしてくれるに違いない」という「信じる気持ち」を抱いて。

するとイエスは、最初は大変つれない返事をされる。「あなたがたはしるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」。信じる気持ちがないところでは「いやし」の奇跡も起こせないよ、ということか。しかし役人はそれでもなお願い続ける。「主よ、子どもが死なないうちにお出で下さい」。するとイエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」。

やりとりはこれだけである。帰ってみると、子どもは熱が引いて癒されたと記される。何が起こったのか。イエスが遠隔操作のテレパシーで子どもを癒したのだろうか。そのような力を持つ神の子なのだ!と言いたいのだろうか?ヨハネ福音書の特色や記述の流れから考えると、そのようなメッセージが浮かび上がってくるのかも知れない。

そのようなヨハネの意図からは外れるが、この物語から二つの「信じる気持ち」を受けとめたい。ひとつは父親の心、子どもの回復を願い、そしてイエスに癒しを求める「信じる気持ち」である。

もうひとつは、イエスの「信じる気持ち」だ。父親の子どもを思う気持ち、そしてその思いに応えて生きようとする子どもの力を、イエスは信じておられたのだと思う。誰かから信じられているということによって、人は大きな力を発揮する。「信じる気持ち」がある限り、人は生きることができる。「いやし」を受けることができる。

しかし「信じる気持ち」を抱きつつ、癒しへと導かれない人もいる。年末年始、前橋教会では何人もの仲間を立て続けに主のもとにお送りした。いずれも「信じる気持ち」を抱きつつ、延命にしがみつくことなく、全てを神に委ねて安らかに召されていった人々だ。それらは悲しい出来事だ。しかし不幸なことではない、とその最期の姿が教えてくれた。

「信じる気持ち」を抱く時、人は死ぬこともできる。いのちの終わりを誠実に迎えることもできるのだ。なぜならば生きるにしても死ぬにしても「信じる気持ち」を抱いて歩むこと、それが私たちと神を、そして私たちとイエス・キリストとを結んでくれるからだ。