2018年1月28日(日)
ヨハネ福音書9:1-12
旅行の予定を立てていて、前日までどしゃぶりの雨だったのに当日は快晴!というよな時、思わずこんな言葉が口に出る。「日頃の行ないがよろしいようで」。何気ない冗談のような言葉なので目くじら立てることもないのだが、これをひっくり返すと「悪い天気の時は誰かの行ないが悪い」ということになる。
自分にとってよいこと・うれしいことは、日頃の行いに対する天のご褒美、悪いこと・好ましくないことは天の罰…。こういう考え方は分かり易いため人の心を捉えやすいが、実はよくよく気をつけて用いなければならないものだと思う。
阪神大震災の時に「これは神戸の人に対する神の罰だ」と言った牧師がいた。日本で最初にキリスト教が伝えられた街であるにもかかわらず、多くの人はクリスチャンではない、そのことに対して罰が降ったのだ、と。とても憤りを感じ、悲しくなった。このような言葉は、ただでさえ地震の被害によって苦しむ人の心を、さらに傷つけるものであり、決して口にしてはならないものだと思う。
今日の箇所の背景にもそのような意識が広がっていた。生まれつき目の見えない人を見かけた弟子たちが、イエスに尋ねる。「この人が見えないのは、誰が罪を犯したからですか?本人ですか?それとも両親ですか?」。
病気や身体の不具合は、何か罪を犯したことへの神の罰という考え方は、古今東西にある。とんでもない発想だと思うが、人間はそういう考え方に染まりやすい。残念ながら聖書の世界も例外ではなく、そのような考え方は「常識」であった。このような周囲の言葉は、病気や身体の不具合に苦しむ人を、なおいっそう絶望の淵に突き落とす響きを持っていたことであろう。
イエスは答えられた。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。この人が見えないことと、この人や両親の行ないの善し悪しとは「関係がない。」と宣言される。この言葉は当時の「常識」に染まっていた人を驚かせたことだろう。そして、そのような「常識」によって辛い思いを抱かされていた人々の魂を解き放ち、心を軽くするものとして響いたに違いない。
「神の業が現れるため」とイエスは語られた。神の業とは何だろう?このあとイエスは泥をこね、この人の目に塗り「シロアムの池で洗いなさい」と命じられ、言われた通りにすると見えるようになったと記されている。「そうか、なるほど。見えるようになる奇跡が行われた、それこそが『神の業』なのか!」そう解釈もできるが、少し違うことを考える。
イエスが語られた「この人は何も悪くない。罪など犯していない」という言葉を聞いて、彼は自分の人生を肯定してくれる言葉を生まれて初めて聞いたのではないか。「私の存在には価値がある。私は生まれてきてよかったんだ…」そんな風に思えた瞬間、その時彼はいやされたのではないか。たとえそれが目が見えるようになる前であったとしても。
「癒し」とは単なる「治療・治癒」ではなく、その人の存在が肯定され祝福されること、生きる喜びが導かれることだと思う。そのような喜びを生み出す出会い、そして交わり。それが「神の業」なのではないか。