2018年3月18日(日)
哀歌3:18-33、ローマ5:1-5
先週(3.11.)の礼拝では、東北教区の方々が作られた「3.11.われらの祈り」という大変よく整えられた祈祷文によって、東日本大震災を覚えることができた。ところが、その日の午後、愛餐会を終えて談笑をしていて、14:46を意識しないままやり過ごしてしまった。夜にニュースでその時刻に黙祷をささげる人の姿を見て「しまった!」と思った。改めて自分の意識の足りなさを感じさせられた。
東北教区ボランティアセンター「エマオ」では、毎月11日の14:46、ボランティアの手を止めてみんなで手をつなぎ黙祷をささげている。祈ったところで何が変わるわけでもない。しかし「覚え続ける」という志から何かが生まれるのではないか。そのことを大切にしたいと思う。
「苦渋と欠乏の中で貧しくさすらった時のことを
決して忘れず、覚えているからこそ
わたしの魂は沈み込んでいても
再び心を励まし、なお待ち望む
主の慈しみは決して絶えない
主の憐れみは決して尽きない
それは朝ごとにあたらしくなる」(哀歌3:19-21)
この哀歌の言葉は、神戸でも東北でも震災の追悼礼拝などでしばしば読まれた箇所だ。バビロン捕囚の苦しみの中で、それでも仄かに残る創造主への信頼と救いの希望が語られている。震災のような災害のただ中では、信仰を持たない人よりも信仰を持つ人の方が悩みが深まることがある。信仰がなければ「運が悪かった」とあきららめもつくが、信仰を持つ人は「恵みをもって我らを導いて下さる神さまが、いったいなぜ!?」という思いを強く抱いてしまうからだ。
しかしそんな中で「それでも神を信じる」と思える人は、希望への扉を開くドアのノブを見出すことができる人なのだと思う。「信じて祈ればその扉が開き、苦難が希望へと一瞬にして変えられる」などという劇的なことはないかも知れない。しかしそのドアノブを離さない限り、いつしか開かれる扉の隙間から、希望の光が差し込むのを見ることができるのではないか。
「苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を、練達は希望を生む」とパウロは語る。「そんなに簡単に、まるで木の皮が剥がれるようにすべてが好転するものか!むしろ神も仏もないとあきらめるしかないのだ!」そう思う人もいるだろう。なるほどそのような形で時間と共に苦しみが和らぐこともあるかも知れない。
しかしパウロは確信を持ってあのように語る。その確信はどこから来るのであろうか?それはイエス・キリストを信じる信仰から来ているものに他ならない。イエス・キリストも苦しみを味わわれた。最も苦しい十字架の重荷を、たったひとりで受けられた。しかしそれは終わりではない。運の悪かった男の空しい最期なのではない。神はイエスを十字架の苦しみの中に捨て置かず、復活のいのちを備えそこへ導かれた。
だから今日、この苦難の中でも希望がある!苦難の中で崩れ落ちそうになる自分を感じながらも、苦渋と欠乏の中で貧しくさすらっても、それでもなお神の憐れみ・いつくしみを信じて生きることができる。その信仰の営みの中で、一足飛びにではなくても、長い時間がかかっても、そこから忍耐が生まれ、練達が生まれ、そして希望が生まれる… それがパウロの示す信仰である。
「どんなときでも どんなときでも
苦しみに負けず くじけてはならない
イエスさまの イエスさまの
愛があるから」(讃美歌533)
この讃美歌の詞を作られた高橋順子(1959-1967)さんは、幼い頃に骨肉腫を発病され、闘病中にこの詞を書かれた。病と闘いくじけそうになる心を支えたのが、いつも通っていたCSで聞いたイエスさまのお話だった。7年間という短い人生の中で記されたその詞をCSのスタッフが書き留め、新しいこどもさんびかの歌詞として応募され、曲がつけられてひとつの賛美歌として整えられていった… それがこの賛美歌のの由来である。短い人生ではあったけれど、イエスの愛を信じて生き、召されていった姿は、この歌の言葉と共に、大切な「信じるこころ」を私たちに教えてくれる。
どんな時でも共にいて下さるイエス。それは心で信じるからこそ確かなものとなる。そんな信仰をあきらめず育て続ける中で、希望の扉のドアノブに手が届くのだと思う。