『 女よ、泣くな 』

2018年4月1日(日) イースター
ヨハネ福音書20:11-18

十字架上でイエスが最後に叫ばれ息を引き取った時、イエスに従った者の中でその場に居合わせたのは女性たちだけであった。ペトロをはじめとする男の弟子たちはそこにいなかった。ユダはイエスを裏切り、他の者はイエスを見捨てて散り散りに逃げ去ってしまっていた。

男たちも女たちも、イエスを信じ、イエスを慕い、イエスを愛していたその思いには変わりはなかったであろう。しかしイエスが捕らえられ傷を負わされるその局面で、片やその場から逃げた男たちと、片やその場に留まった…。その違いは何だったのか。

男たちは「この方についてゆけば、神の国の栄光にあずかれる。うまくすればこの方の右、または左に座れるかも知れない…」そんな栄光や名誉、ステイタスを求めていたのではないか。つまり彼らは「イエスを愛していた」というよりも「イエスに従う自分」を愛していたのだ。だからそのイエスが、捕らえられ無力な姿に置かれた時、それを直視できずに逃げ去ってしまった。

しかし女性たちはただひたすらイエスを愛していた。イエスに従い同じ時を過ごすことが喜びだった。その思いが、十字架の惨劇の中でもその場に留まる志を立ち上がらせたのだろう。そして、彼女たちはその志ゆえに、イエスの復活のその最初の証人ともなったのだ。

ヨハネにおいて、最初の復活の証人はマグダラのマリアただひとりである。日曜の朝、墓に出かけてみると入口の石がどけてあり、イエスのなきがらはなかった。マリアは急いでそのことをペトロに告げると、ペトロは墓を確認した後、再び家に帰ってしまった。

マリアはひとり、空の墓の前で泣いていた。白い衣を着た天使が「なぜ泣いているのか」と聞くと、「私の主が取り去られました。どこに置かれたのか分かりません」と答えた。マリアはイエスに遭いたかった。遺体でもいい、そこにいるイエスを確認し、「安心して悲しみたかった」のではないか。するとよみがえったイエスが現れ、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われた。これはどういう意味だろうか。

イエスを深く愛することが、女たちをイエスにより近い者にした。それは尊いことだ。しかしあまりに愛が深すぎると、その愛する相手がいなくなった悲しさに囚われてしまい、新たな一歩を踏み出せなくなることにもなる。その人の心を過去に縛り付けてしまい、その後も注がれる神の恵みから目をそらさせてしまうことにすらなりかねない…。

そういうことにならないように、イエスはマリアに呼びかけ、そして彼女をそっとやさしく突き放されるのである。「あなたはあなたのこれから歩む人生がある。わたしにすがりつくことによって、そのすべての日々を涙の日々にしてはいけない。わたしはよみがえって、いつもあなたと共にいる。だから神に全てを委ねなさい。そうすれば全てのことはうまくいく。女よ、泣くな。」それがイエスの、マリアへのメッセージなのだと思う。

人生には思いもよらない悲しみや苦しみが訪れる。しかし黙示録では「新しい天と地を見るとき、神自らが人と共にいて、その目から涙をぬぐいさって下さる」と語られる。イースターの、よみがえりのいのちを信じる信仰によって、私たちはこの新しい天と地を望み見ることができるのだ。

 
♪ ♪ ♪

Everything’s gonna be alright
(すべてのことはうまくいく)

Dear little darling don’t shed no tears
(だから愛する人よ、涙をふいて)

No woman, no cry,
(女よ、泣くな)

<Bob Marley>