『 確認する?信じる? 』

2018年4月8日(日)
ヨハネによる福音書20:19-29

「わたしは目に見えるもの、手に取って確かめられるものしか認めない」という人がいる。しかしそんな人であっても「何かを信じる」という営みとは無縁ではいられない。例えばお金。貨幣が流通するのは「この特殊な紙切れには価値がある」という約束を国家や統治者が保証し、それをみんなが信じているからである。その約束が破られる時、それはただの紙切れになる。

映画『コンタクト』の主人公エリーは、「データで証明できるものしか信じない」と宣言する科学者である。恋人である神父に「神の存在は証明できない、よって神はいない」と突っかけると、彼は尋ねた。「君は亡くなったお父さんを愛していた?」「ええ、もちろんよ。」「その証拠は?」エリーは絶句する。

神を信じるということ。それは証拠をあげて証明することではない。人が誰かを愛する気持ちを証拠をあげて証明できないのと同じように、それは信じるしかないことなんだ…。そんなことを物語る印象的なシーンであった。

さらに考えてみたい。「信じる」とは、疑いを持たすに100%信じ切ることだけなのだろうか。そうではないと思う。100%ならば、それはもう「確認している」のと同じであって、「信じる」とは異なるものになるのではないか。「信じる」とは、100%でなくてもいい、そんなことはあり得ない。「本当かな?」という思いをかかえながらも、それでも「信じる方に賭ける」。そんな営みなのではないか。

敢えて言おう。「信じる」という行為には、いくらかの「疑い」の心も入っている… 入っていて構わないのではないかと思う。そういう揺らぎがあるからこそ、「信じる」という行為には奥行きが生まれ、豊かさ・暖かさが伴うのではないか。

イエス・キリストのよみがえりの出来事、復活のイエスに出会った弟子たち。ところがひとりだけ、その場に居合わせなかった弟子がいた。「ディディモ(双子)」と呼ばれたトマスである。彼のこれまでの発言、「私たちも主と共に死のうではないか」(11章)や「主の道をどのようにして知ることができますか?」(14章)といった言葉からうかがえるのは、他の弟子以上にイエスを理解し、従いたいという思いを持っていたということだ。

しかしそのトマスは、他の弟子たちがイエスの復活を証言するのに対し、「私は信じない。手の釘の穴に指を入れるまでは信じない!」と返した。このことでトマスは疑い深い人間の代表選手のように言われるが、それは少し気の毒だと思う。トマスは不信仰だったのか?そうではないと思うのだ。信じたかった、けれどもその場に居合わせなかったのが悔しかったのではないか。

そのトマスにもイエスが姿を現わされた。「この釘の穴に指を入れなさい」と。いったいどんな表情で言われたのか?厳しい叱責の表情ならばトマスにとってはいたたまれない時間だっただろう。しかし私は微笑みながら、いやむしろ高らかに笑いながらそう言われたイエスの姿を想像する。

それは愛憎入り混じったトマスの思いをすべて知り、受け入れて、そして赦し導いて下さるイエスの愛の表情である。さらにイエスは大切な言葉を語られた。「あなたは見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と。イエスは「信じる」とは、確認することではないということ、証拠をあげて証明することではないということを示されるのである。

「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11章)という言葉がある。そうは言われても、私たちはいつも全てのことを100%信じられるわけではない。トマスのように疑いの気持ちを抱いてしまう。それでいいのではないか、と思う。そこから始めるしかないのではないか、と思う。私たちのその「ゆらぎ」も含めて、受けとめ導いて下さるイエスがおられるのだから。