2018年4月29日(日)
ヨハネによる福音書15:1-11
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。よく知られたイエス・キリストの言葉である。ぶどうの枝の広がりとその先に実る果実のつながりを、イエスと信じる人々との関係にたとえている。
この言葉をもとに作られたこどもさんびか「主イエスはまことのぶどうの木」(改訂版60)は、古い歌詞ではこのような言葉があった。「小さなぶどうは幹なしに/大きなふさにはなりません/育てる神さま手入れして/実らぬ小枝を切り捨てる」(旧こどもさんびか73)。「切り捨てる」という言葉が厳し過ぎるという判断からか、改訂版では「実らぬ小枝を取り除く」と変更されている。
しかし実際にぶどうの手入れをした経験からは「切り捨てる」の方が農夫の現実に近いと言えるのではないかとも思う。害虫が新枝に卵を産み、枝の中を幼虫が食い進むことで枝がだめになる。これを防ぐためには、葉っぱの先が枯れている枝を見つけて、虫が入っているところから先を切り捨てることである。作詞をした人は、この事実を知っていたのかも知れない。
このイエスの言葉が指し示すのは、イエスにつながっていることの大切さである。イエスにつながっていれば、そこで人は豊かな実を結ぶことができる、ということだ。では、イエスにつながって「豊かに実を結ぶ」とは、具体的にはどんな歩みをすることだろうか?
先ほどのこどもさんびか、旧版ではこう歌われていた。「しっかり主イエスにつながって/立派なぶどうになりましょう」。しかし改訂版では「しっかり主イエスにつながって/わたしもゆたかに実を結ぶ」。そこには「立派さ」よりも「ゆたかさ」を目指す意識の変革が読み取れる。そしてその「ゆたかさ」とは、人との比較ではなく、イエスや神との間の「ゆたかさ」であって、人間から賞賛されることでなくてもよいのだと思う。
教会の歩みも総会を終えて、新たな年度に入った。このイエスの招きに応えて、「こころ一つにつながって」歩んでゆきたいと思う。ここで「こころ一つに…」と言う時、それは「みんな同じ思いで、秩序を保ち、一糸乱れぬ隊列で…」といった一体感とは異なるものである。政治家が口々に言う「オールジャパンで…」という言葉には、独裁的な統一の匂いがする。
聖書の示す「こころ一つに」というのは、実際の関わりにおいてはみんな少しずつ違う、違っていていい。しかしいろんな異なる働きが、イエスを信じるという信仰によってつながりながら、互いの存在を認め合い、信頼して歩む道のりのことである。
ではそこで「実らぬ小枝」はどうなるのだろうか?切り捨てられるのか?取り除かれるのか?いや、「実らぬいちじくのたとえ」(ルカ13:6)のように、たとえその時は実を結ばないように見える木であっても、切り倒してしまわないで実を結ぶまで待っていて下さる…それがイエス・キリストであり、神さまなのだ。
そのことを信じて、イエスにつながっていよう。そしてそこで、たとえ小さくても貧しくても「ゆたかな」実を結ぼう。