2018年5月6日(日)
ヨハネによる福音書16:12-22
イースターからペンテコステに至る季節の中に、キリスト教の教会暦においてはもうひとつ大切な日がある。それが「昇天日」である。イエス・キリストが十字架の死から蘇った後、弟子たちと共に40日間を過ごされ、そして天に昇っていかれた。その昇天日、今年は5月10日(木)である。
昇天の出来事を伝えるルカの記述によると、弟子たちは「大いに喜び・・・神をほめたたえていた」とある。本当だろうか?復活によって再会できた師・イエスと、再び別れねばならなかった出来事、それが「昇天日」である。『礼拝と音楽』という雑誌では、それは「第2の受難と言えるのではないか」という表現があった。恐らくその方が弟子たちの実感に近いのではないかと思う。
十字架の受難を前に、師であるイエスを見捨てて逃げ去った弟子たち。その痛恨の思いも復活の喜びの中で癒されていった…。イエスと共に過ごした40日間は、弟子たちにとってとても心強い時間だっただろう。
しかし再び師の不在という大きな喪失感の中に置かれる弟子たち。使徒言行録冒頭の「天を見上げる…」という記述こそ実際の姿に近いのではないかと思う。それはたとえてみれば、震災や津波の被害によりすべてを失って、茫然と立ち尽くし途方に暮れる人の姿である。
今日の箇所は、そんな「師の不在」という状況を見越して、イエスが弟子たちに語られた言葉である。「しばらくするとあなたがたは私を見なくなる」「あなたがたはは悲嘆に暮れるが、その悲しみは喜びに変わる」とイエスは言われる。「はっきり言っておく」と断言される。
しかし私はそんな風に断言することはためらいを感じてしまう。津波の被害に遭った人に「あなたの悲しみは喜びに変わる」などとは簡単には言えない。なぜイエスはあのように、確信を持って言うことができたのだろうか?
イエスは知っておられたのだと思う。誰にとっても生きている限り、必ず新しい時が必ずやって来るということを。「悲しみは喜びに変わる」といっても、悲しみが質的に喜びに変化する、ということではないだろう。そうではなく、時間の経過と共に悲しみは癒され、新しい時の中で喜びを感じる体験がきっと与えられる、ということだ。それを与えてくれるのが、時間であり、人々の日常の営みであり、そしてその時間と日常を導いておられる神さまへの信頼なのだ。
悲しみの夜に打ち沈む時、人はもう夜明けは来ないのではないかと思い込む。しかしそれでも地球は回り、朝日が昇る朝がやって来る。そんな世界への信頼、そして世界を造られた神への信頼を忘れない限り、私たちには必ず新しい時が、そして喜びが与えられる。そのことを信じたい。