『風が吹くその理由(わけ) 』

2018年5月20日(日) ペンテコステ礼拝
使徒言行録2:1-11

ペンテコステは風の起こした奇跡物語である。完全に密閉された建物には風の入る余地はない。しかしどこかにすき間があると、そこから風は吹き込んでくる。風の働きは、神出鬼没である。

ペンテコステの日に、集まって祈っていいた弟子たちの心の中も、すき間で一杯だったのではないだろうか。大切な師を見捨てて逃げ去った弱い自分の姿。昇天日、再びイエスが天に昇り、いなくなってしまった心細さ。弟子たちの心の中には、そんな「破れた思い」があちこちにあって、すき間だらけだったのではないかと思うのだ。そのすき間目がけて、風=聖霊の導きが注ぎ込んできたのである。

ところで、風の吹くメカニズムとはどんなものなのだろう?気象学の説明によると、それは「高気圧から低気圧に向かって動く空気の流れ」である。風は高いところから低いところに向けて吹いてくる。格差をならそうと吹いてくる。そしてその風は決してひとつのところにとどまっていることはない。これは何か象徴的なことを表わしているように思う。

神さまの恵みは、この世の最も低くされた人のところに真っ先に与えられる。そのような形で神は世界を新しくされる…そんなことを現わしているのでは?

ペンテコステの不思議な風が吹いてきたのは、弟子たちが「どん底」状態の時だった。そんなどん底に沈んでいた人間に、勇気を与え押し出してゆく…。そんな「ふしぎな風」がどこからともなく吹いてきたのである。

ではその風は、弟子たちにだけ吹いてきたのだろうか?いや、弟子たちの周りにいる人々にも、きっと風は吹いていたに違いない。しかしその人たちは聖霊の導きを受けなかった。なぜか?それは心にすき間がなく、思いが高いところに留まっていたからだ。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」(ルカ18:9)のところには、風は吹いてこない。吹いてきたとしてもそれを感じられないのだ。

しかしそんな人にも、本当は「弱さ」があるはずだ。完璧に生きられる人間などどこにもいない。どうしてその弱さを認めようとしないのだろう?弱さを隠そうとするのだろう?人に対してごまかせても、すべてをご存知である神の前では、隠すことなどできないのに…。

風を感じるにはどうしたらいいのか?簡単なことだ。自分を空しくすればいいのだ。自分の弱さ・小ささを、隠さねばならない恥ずべき汚点ととらえるのではなく、神の聖霊の導きが働くステージだと受けとめる。神のまなざしを感じて、その弱さをごまかさずに認めようとするとき、その低くされた心や心の「すき間」に、力を与える「ふしぎな風」が吹き込んでくる。そのことを信じよう。