『 対決 』

2018年6月17日(日)
アモス7:10-15、使徒言行録13:4-12

私たち人間は、できれば多くの人と友好的に過ごしたい、心開き通わせ合って平和に暮らしたいという願望を持っている。しかし一方で、人間はすぐに対立的な状況に陥り、主義主張の違い、経済的理由、土地の支配をめぐって相手と対立する道を選んできた。友好か、対立か。それは私たち人間の営みに、常に立ち上がる永遠のテーマである。

「できればあなたがたは全ての人と平和に暮らしなさい」(ローマ12:18)「あなたの敵を愛しなさい」(マタイ6:44) これらの聖書の教えも、一般論では友好的な関係を結ぶことを教えている。しかし聖書は「どんなことがあっても、対立することなく友好的に事を進めよ」と教えているわけではない。

イエスは弟子を宣教に遣わすにあたって「あなたがたの言葉を拒む者がいたら、その町を出るとき足のほこりを払い落としなさい」と言われた。時と場合によっては対決をも辞さず。そのような厳しさを携えて歩むことを教えておられるのである。

イエスが示された神の国の福音、その目指す世界がないがしろにされる状況、たとえば弱い者・貧しい者が軽んじられる状況があったならば、見て見ぬふりをしないで声を挙げ、時には対立する…。イエスはそのような生き方を教え、そして自らも生きられた人だった。「いつもニコニコ、やさしいイエスさま」だけではなかったのである。だからこそ十字架にかけられて命を奪われたのだ。

イエスのその生き様は、旧約聖書の伝統に登場する預言者たちの生き方に連なるものだ。イスラエルの王たちが、しばしば神の道を離れ悪政を行なった時、それを決してなあなあにして見過ごすのではなく、たとえ権力者が相手でも対決して悔い改めを宣べる。それが預言者の働きだ。今日の箇所・アモスはその筆頭格である。

初代教会の使徒たちの宣教の姿にもそのエートスは受け継がれてゆく。イエス・キリストの福音の宣教を禁じられた時、ペトロは「人に従うよりも神に従うべきだ」と答えた。今日の箇所でもキプロス島の総督付きの偽預言者・バル・イエスとの対決が描かれている。

国や組織や共同体の進む道が大きな過ちに向かおうとしている時に、対立を避けて上辺の平穏を保つのではなくて、時には腹をくくり対決することも必要だ。しかしそれは「いつもプンプン怒っていて、何にでも憤る人であれ」ということではない。

私たちが目指すのは、対決することそれ自体ではなく、対決せざるを得ない状況の、その先に開かれる世界である。神の愛がすべてを支配する世界、それは喜ばしいものである。そのような世界を開くために、イエスは時に対決の道を歩まれた。だから私たちただやみくもには怒りを抱いて臨むのではなく、喜びを抱き、できれば微笑みながらその道を歩みたいと思う。