『 生ける神の教会 』

2018年7月8日(日) 創立記念日礼拝(132周年)
Ⅰテモテ3:14-16

サッカーワールドカップ、前任のハリルホジッチ監督解任のゴタゴタなどであまり期待されなかったが、始まってみると日本代表チームの活躍により、一転大盛り上がりとなった。ハリル監督の求めたサッカーは相手ボールを奪って縦に速く攻めるスタイル。一方日本代表がこれまで続けてきたのは、じっくりマイボールを回して崩すスタイル。その流儀の違いが監督更迭の原因と言われている。ところが快進撃を続けた日本代表チームの戦い方の中には、明らかにハリル監督の目指したスタイルが根付いていた。

「家つくりらの捨てた石が、隅の親石となった。」(詩118) 後の時代には「大切なことだ」と認められるものであっても、その日その時その時代の人々には認められず、むしろ捨てられる…。そういうことはいつの時代にも起こり得るものだ。

本日は前橋教会の創立記念日。明治の開国日本に、ぜひともキリストの福音を伝えたい!という人々の熱意によって、近代日本の伝道は始められた。キリスト教は伝道意欲の強い宗教であり、だから世界宗教となった。しかし最初からその道を歩んでいたわけではない。キリスト教が世界宗教となるかどうか、分かれ目になる出来事があった。

そのひとつが「ユダヤ人問題(割礼の問題)」だと思う。「クリスチャンとなって救いを得るためには、ただイエス・キリストを信じるだけではダメだ。異邦人は割礼を受けてユダヤ人となり、それから洗礼を受けてクリスチャンとなるべきだ…。」そんな主張を掲げる保守派の人々が現れたのだ。

そこでこの問題に決着をつけるために使徒たちの会議が開かれた。その顛末は使徒言行録15章に記されているが、結論は「割礼を受ける必要はない。異邦人は異邦人のまま救われる。」というものだった。これは今の私たちには当たり前に思えるが、当時の人々にとっては大きなチャレンジであったことだろう。

人間には保守的な部分がある。自分が慣れ親しんだやり方が変えられることに誰しも抵抗を覚える。しかしこの時、その心の声に従って異邦人に割礼を求める決議をしていたならば、キリスト教は世界宗教への道を歩まなかったかも知れない。

テモテへの手紙の中には、初代教会における信仰告白と思われる言葉が引用されている。この中で今日は特に「(キリストは)異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ…」という言葉を、感謝をもって受けとめたい。異邦人の中に宣べ伝えるという、当時としてはチャレンジとなる歩みがあったからこそ、世界にイエス・キリストの福音が届けられたのである。イエス・キリストは、人種・民族・階級・性別・学歴などに関係なく、すべての人に救いをもたらす「救い主=キリスト」である… そう信じるところに「生ける神の教会」の歩みがある。