2018年7月22日(日)
第一コリント12:14-25
聖書の、個々の箇所からではなく、その全体から浮かび上がってくるように感じるメッセージがいくつかある。そしてそれは、単にクリスチャンにとってのみならず、人と人とが共に生きるという営みにおいて、すべての人が大切にすべきと思うようなメッセージである。そのひとつに「みんな同じ、みんな違う」というものがあると思う。
ひとつめの「みんな同じ」。いのちの重さ・尊さにおいて、我々人間は「みんな同じ」だということ。ユダヤ人・異邦人、男・女、子ども・おとな、年配者・若年者の区別なく、神からかけがえのない命を与えられ生かされているという点において、すべての人は「みんな同じ」。そんな「存在の平等性」とも言える世界を聖書は指し示す。そして、ひとりひとりの人間が「生まれてきてよかった」と思えるような社会を目指して、イエスは生きられたのだと思う。
ふたつめは、その「みんな同じ」を前提としたうえでのことであるが、ひとりひとりは「みんな違う」ということ。みんな違っていること、それでいいんだ、それは良いことなのだ… そんなメッセージが一方では浮かび上がる。
「みんな同じ」ということが、「存在の平等性」ではなく「ふるまいの同質性」ということで用いられると、それはひとりひとりの人生をむしろ息苦しくさせるものとして作用してしまうことがある。「同調圧力」。みんな同じでなくてはならない、違う行動・異質な存在は排除すべきである… そういう中から、いじめ・切り捨て・差別、そして争いが生じてくる。
日本という社会は、歴史的・文化的にこの「同調圧力」の強い社会だと言われる。「和をもって尊しとなす」「寄らば大樹の陰」「出過ぎた釘は打たれる」… そのような価値観の中で、「違いを認めない」といった意識が形作られ、個性を押しつぶしてきた社会。そんな中に生きる私たちだからこそ、聖書からこの「みんな違う」ということを積極的にとらえる価値観を学ばねばならないと思う。
今日の箇所では、ひとりひとりの個性や働きの違いが、身体のそれぞれの部位の働きにたとえて語られる。身体の中でそれぞれの部位が同じ働きをしているのではなく、違う働きが組み合わされて身体を形作っているように、私たちも個々の違う働きが組み合わさって共に生きる者となることが大切なのである。
「みんな同じ・みんな違う」。この二つの相反するイメージをバランスよく整え歩むのが、豊かな人生につながるのだと言えよう。しかしこれは「言う(聞く)は易く、行なうのは難い」事柄だ。今日の箇所を含む手紙が送られていたコリントの教会でも、違いを豊かに生かし合うのではなく、むしろ他者を見下したり遠ざけたりする現実があったという。それが私たち人間の飾らぬ姿である。
理想をすぐに実行できない私たち。だからこそ毎週の礼拝が必要なのだと思う。聞いて(読んで)理解しても、いっこうに実行の伴わない日々の歩みの中で、だからこそ聖書のメッセージにくりかえし触れることにより、私たちの成長が備えられるのだ。